「頑張る」の底にあった自分の思い込みとは
最近、平日や休日関係なく仕事のことを考えている。
平日は仕事で実働を行い、休日は実働ではできない計画を整理したり、それを進めたりしており、日を増すにつれて仕事や探求活動に集中している感覚がある。
その感覚が高まるにつれ、1人の時間を大切にするようになった。
仕事が終わればいつもであればシェアハウスのリビングにいたり、ご飯をみんなで一緒に食べたりしていたのだけれど、自分の部屋にこもって残タスクの処理や水産業の勉強に時間を使うようになった。また、水産界隈の方と一緒にご飯を食べながら水産業を学ぶ ということに時間を使うようになった。自分が尊敬する水産の大先輩に会う ということもあり、自分を追い込んでいて、とにかく空いている時間があれば何かしらのインプットとアウトプットをしよう という気持ちのもと、誰かとゆるりと過ごす ということを意識的に避けていた。結果的に3月はシェアハウスとの距離をつくっていた。
そんななか、先日シェアハウス内で「最近の小川がおかしい」という話題になっていた ということを聞き、びっくりした。
普段の小川であればみんなと一緒に過ごしているのに、それが急に減ったこと。そしてたまに会ったかと思えば疲れている感じや刺々しい雰囲気が出ている と言われたのだ。
正直それを言われてそんなことはないだろう と最初は思ったのだけれど、思い返せば確かに精神的に体力的に疲れていたし、そのストレスから普段なら怒らないようなことで感情が荒立ったことが何回かあったことを思い出した。
ではどうして自分がそんな態度をとってしまったのだろうか ということを考えると、確かに心身の状態が整っていないときは人との距離感を遠目に設定したり、負の感情が湧き上がりやすくなったりすることは周知の事実である。
しかし、それ以上に自分のなかには、
という認識があることを発見した。
この認識があるから、誰からも理解されないから1人になるのだけれど、苦しかったりさみしかったりするからストレスが溜まり、疲れが溜まって自分の行動に刺々しさが出てくるのかもしれない。
そして冷静になってこの認識を改めて考えてみると大いに思い込みをしていて、かつ非合理的で非実現的なことをしているのではないだろうか。
まずそもそも「誰からも理解されない」ということに対して、確かに100%理解してもらう ということはないにしても、濃淡はあるわけで近づけていくということは出来る。これは完全なる思い込みだ。
また、「がんばる」のは自分が目指しているものを達成するためであるのだが、そもそもそれは自分ひとりが懸命に取り組んで達成されうるものなのだろうか。
自分が目指しているものは、水産業界においていまだ出会わなかった要素を組み合わせることであり、ゆくゆくは自律的に組み合わさる場を生み出すことである。
つまり、現状、自分ひとりがどれだけ頑張ったところで全くもって達成されることはない。
では、「がんばる」とは一体どのような意味なのだろうか。
自分が目指す世界を実現するための行動指針や美学とは何になるのだろうか。
この話は自分の在り方に大きく影響を与える、非常に重大な話のように感じていて、引き続き自分に問いかけていきたいと思う。
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