静 霧一 『きっと、今日も私は窓辺で愛する貴方を待っている』
「私の人生、そう悪いものじゃなかったわね」
キーコキーコとロッキングチェアを揺らしながら、老婆は呟いた。
老婆の膝の上には、灰色の毛並みをしたラグドールが体を丸めながら寝転んでおり、彼女は優しくその毛並みを撫でた。
その柔らかな毛並みは老婆のしわがれた手の平を包み、猫もまた、愛情の恩返しとばかりに喉をぐるぐると鳴らす。
老婆は窓の外に目を向ける。
そこには手入れをされた小さな庭があり、庭を区切る柵の外に目をやれば、家までつづく一本の砂利道と、緑の草原が広がっていて、風が吹くたびに、葉っぱの光沢を煌びやかになびかせていた。
「今日もまた、あの人はくるだろうか」
そんなことを思いながら、いつものように老婆の座る椅子は揺れた。
彼女がこの家に住み始めたのは、60年も前のことである。
まだ、世間を知らない小娘だった彼女は、許嫁であったウィリアムとともにこの家を購入し、そしてともにここに住んでいた。
ウィリアムは郵便事業を行うロイヤルメール社で働いており、非常に勤勉な人物であった。
彼の真面目で優秀な能力は、ロイヤルメール社でいかんなく発揮され、その後に始まる電報サービスや電話サービス事業の責任者としてイギリス中を飛び回っていた。
だが、彼は断固として都市部に家を構えることはなかった。
その理由も、「休日はせめて自然に囲まれたい」という簡単なものであった。
出張や泊りがけの多いウィリアムであったが、休日は自然の広がる田舎町のぽつんと経つ1軒屋に戻っては、妻のソフィアと2人だけの時間を満喫していた。
ソフィアは休日が来るのが待ち遠しくて、ちょうど庭を区切る柵の出入り口が見える窓の近くにロッキングチェアを置いて、猫を撫でながら、ウィリアムの帰りを待っていたのであった。
そんな幸せな時間も永遠には続かない。
ウィリアムは晩年、癌を発病し亡くなった。
最後は病室ではなく自宅という彼の要望もあり、ウィリアムはソフィアに手を握られながら、この世を去った。
もう15年も前のことである。
だが、ソフィアにとってはそれは昨日のような出来事であり、彼がこの世からいなくなっても、いつかあの庭の柵の向こうから彼が帰ってくれるのではないかと、淡い希望を持ちながら、毎日のように椅子に座りながら外を眺めていた。
チリンチリン
外から鈴の音が聞こえる。
老婆は霞んだ眼を擦りながら、目を細めると、そこには自転車に乗った青年が柵の出入り口に立ち、窓に向かって手を振っていた。
彼女はそれに手を振り返すと、それを合図に、その青年は自転車の後ろに括り付けた木のバスケットを手に持ち、ガチャリと玄関を開けた。
「ソフィアさーん、お邪魔しますね!」
そういうと、その青年は玄関の中へと入り、そしてソフィアのいるリビングに現れた。
「ソフィアさん、持ってきましたよ」
「ありがとう、エリオット。そこに置いておいておくれ」
彼はバスケットをテーブルの上に置いた。
「ソフィアさん、今日のパンはホットクロスバンズとシナモンバンズだよ」
「まぁ、美味しそうね。小さく千切って私にくれるかい?」
「いいよ。今取り分けてくるね」
エリオットは台所から小さなお皿を持ってきて、そのお皿の上に、彼女が食べやすいように小さく千切ったパンを乗せた。
「このパンね、僕が焼いてみたんだ。味、どうかな?」
「うん、上出来だわ。美味しいわよ」
ソフィアはパンをゆっくりと噛み締めた。
エリオットは少し離れた地元でも有名なベーカリーで働いている。
そのベーカリーでは、パンを買えない人のためにパンの配達をしており、エリオットは3日に1度、ソフィアの家に訪れていた。
「いつもありがとうね。はい、これ」
ソフィアは彼にパンの代金と、多少のお小遣いを彼に渡した。
「いつもありがとう、ソフィアさん」
「いいのよ。お金なんてあの世に持っていけないんだから」
彼女は少し落ち込んだ表情を見せながら、パンを頬張り、そしてまた外を眺めた。
「ねぇ、ソフィアさん」
「なんだい?」
「ソフィアさんっていつも外を眺めてるけど、誰かを待っているのかい?」
「そうだね。待ってるよ。ずっと、ずっとね」
彼女の眼は寂しさを宿していた。
その眼に映るものは、景色ではなく、情景であった。
「エリオット、今の仕事は好きかい?」
「うん!大好き!僕、いつかこの国の一番有名なパン屋になるんだ!」
彼はにっこりと笑った。
「それは楽しみだね」
「今は辛いこともあるけど、それでもやっぱりパンが大好きだから、どうしても皆から美味しいって言われるパンを作りたいんだ」
彼の顔は自身に満ち溢れていた。
人生の景色というのはそれぞれ違う。
今彼の見る景色は、彼の可能性によって開かれる輝かしい未知であり、決して振り返ることのない道である。
若さという輝きはなんて美しいものなのだろうと、ソフィアは目を潤ませた。
彼女はすでに、自分が駆けた足跡を辿ることしか出来ない。
彼を愛した日々だけが、彼女の瞳には映っている。
「人生はメリーゴーランドよ。きっとあなたにも幸運が訪れるわ」
ソフィアは優しくエリオットへ投げかけた。
彼は「ありがとう」と彼女のしわがれた手を握り、そして手の甲にキスをした。
「じゃあ、また明々後日くるね。それまで体調崩さないようにね!」
そう言って、エリオットは家の外へと出て、自転車に乗った。
ソフィアはそれを窓の外から微笑ましく眺めていた。
もう愛すべき人は、あの柵の向こうから現れない。
それでも未だに、彼女は想い続けていた。
窓の内側から彼を待つ時だけは、誰にも邪魔されない、彼女だけの時間。
彼女は今日もまた、彼を待ち、外を眺める。
その瞳は、恋する少女のように、輝いていた。
おわり。