【短編小説】睡蓮に沈む金魚

 睡蓮に喰われる夢を見た。

 睡蓮の蔦が私を縛りつけ、濁った水面へと私を引きづり込んでゆく。
 静かに沈んでいく様に何の抗いも持たず、ただただ目を瞑って流れゆくままに身を任せた。

 半身で感じた水の温度は、感覚を狂わせるほどに冷たい。
 光の届かぬ睡蓮の下で、淀んだ水を肺に詰めながら泥のたまる水底に背中をつける。
 意識が遠のき、ちょうど肺から最後の気泡が漏れ出した瞬間、私はその夢から引き揚げられた。

 悪夢にしては心地よく、瑞夢にしては薄気味悪い。

 背中には汗をかいていたらしく、ぐっしょりと濡れて背中に冷たく張りついていた。
 私はベッドから出ると、一直線にお風呂場へと向かった。

 脱衣所で部屋着を脱ぎ散らかし、シャワーの蛇口をきゅるりと捻る。
 無感情にシャワーを全身に浴び、お湯が私の濡れた抜け殻を洗い流す。

 温まるつもりなど毛頭ない私は、汗が流し終わるとさっさと風呂場から出て、バスタオルで体の水滴を拭った。
 髪が生乾きのまま、新しい部屋着を着直し、テレビ前のソファーにどさりと座る。

「あー」という、口を半開きにしながら天井をぼーと眺めた。

 いつからだろう。こんなにも無気力な感触が私を蝕み始めたのは。
 指先に力が入らないし、目の焦点はコバエのように左右にちらちらとブレている。

 耳鳴りが私にひそひととしゃべりかけては、耳の奥へとその舌先を伸ばしているような感覚にさえ苛まれる始末だ。
 閉め切ったカーテンの隙間から、太陽の木漏れ日が差し込んでは、床のフローリングに反射し、部屋に舞う微細な埃がそれにキラキラと照らし出され、その光景はいつかのノンフィクションドラマで見た雪原のダイヤモンドダストのようであった。

 私はこんなにも廃れた人間であっただろうか。

 今更になって、甚だ疑問が湧いてくる。
 だがそれは事実であって、その疑問は"その事実を認めたくはない私のわがまま"だということを私は薄々感じていた。

 小さな水槽に入った金魚がぷかぷかと水面に上がっては、外の酸素を吸いにパクパクと口を開けている。
 私はソファーの背もたれに背中をだらりと預けながら、うつろな目でそれを眺め、にっこりとほほ笑んだ。

 あの金魚は確か夏祭りの金魚すくいで取ったものであった。
 私は別に欲しいだなんて思っていなかったけれども、その時に一緒に行った顔すらも思い出せない元カレにもらったもので、どうもそれの処分にも困った挙句に、嫌々飼い始めたのだ。

 金魚というのは、ずいぶんとしぶとく生きるもので、平均寿命が10年ほどあるそうだ。
 最初はあんなに小柄で小さかった金魚も、8年経った今ではブクブクと大きくなり、目を背けたくなるほどの歪な形に肥えたフォルムはとても醜くく、ただただ餌を食べるだけの赤色の魚に慣れ果てていた。

 金魚というのは、水生環境に敏感に反応する。
 本来であればきちんと手をかけて飼育しなければすぐ死んでしまうらしいのだが、こいつはしぶとく生き永らえていて、もはや金魚とは呼ぶにはいささか躊躇してしまう別の何かになっていた。

 だが、私はこちらの姿に少しばかり愛着が湧いている。
 当然、私は小さくて可愛らしい姿が好きで、こんな醜い金魚は好きではないのだが、どこか憎めないのだ。

 それは私の肥えた理性を具現化したような様相のせいなのか。
 ふと、金魚が私のほうを向き、パクパクと口を動かしている。

「餌をよこせ」
 飼い主に向かってそんな憎たらしい言葉を吐いたようにも思えた。

 私は容姿が悪いわけではない。
 だからと言って、特段可愛いというわけでもないが、彼氏が途切れたことはなかった。

 女の子である私は、常にお姫様であった。

 私は選ぶ側の立場に君臨し、常に男を精査した。
 清潔感がない、身長が低い、頭が悪い、金がないと心の中で、勝手にランク付けをしては、評価が平均以上の男を選りすぐって、不釣り合いな男は私の関係から排除していった。

 楽で仕方なかった。
 人生、こんな楽に恋愛が出来ていいのだろうかと思うほどに、私は舐め腐っていた。

 そんな学生時代を過ごした私は社会人となった。
 すぐにでも結婚して子供を産んで、自分のプライベートを充実させたいだなんて思い描いていたため、私は当り障りのない事務職として入社した。

 それからもうすでに5年が経っている。
 今や、彼氏どころか男友達すらできていない。

 そんな自分を過去の自分が責め、凹みはするが、それでもなお、私は選ぶ側であると無意識に思っていた。

 私はお姫様なのだ。

 だが、現実というのは嫌というほど私に硝子の破片を突き刺していく。
 餌を与え続けられたわがままな私は、いつしか自分が肥えた怪物になっていたことさえ気づいていなかった。

 鏡を見れば、私の笑顔が歪んでいることも、それは別の誰かの顔だと思い込んでいた。
 手入れの行き届いていない所々鉄の錆びた孤高の城の、ボロボロに金の装飾が剥げたキングチェアに独り胡座を掻いていたのだ。

 なんて痛々しい様だろうか。

 それでもなお、承認欲求は私の喉を渇かしては、痒くてひりつく痛みを与える。
 私はスマホを開き、雑踏がひしめき合うネットの深海へと潜りこんだ。

 今日もその海はドロドロと泥を巻き上げていた。

 やれいいねだの、やれ可愛いだの、やれお洒落だのという言葉を餌にして生きながらえる私は、地上に上がり酸素を吸おうとするが、私の尾ひれに泥がまとわり付いて離れようとはしてくれない。

 その泥をよく見れば、私が捨ててきた過去の化粧品や食べ物、プレゼントや友達が混ざり合って、異臭を放つ腐りかけたヘドロとなったものであった。

 私は投稿画面をひたすらスクロールしながら、下へ下へと潜っていく。
 潜れば潜るほど、だんだんと息苦しさを感じる。

 それもそうだ。
 過去の栄光が私の首を絞めているのだもの。

 だんだんと空気が薄くなり、私の体は鉛のように重くなる。
 ゆっくりゆっくりと仄暗い水底へと引きづり込まれながら、私の心は遠い遠い過去へと落ちていった。

 つらいよ、苦しいよ、なんで誰も見てくれないのさ。
 私は頑張っていたじゃないか。

 気づけば、私は笑いながら泣いていた。

 朝の清廉とした風がふわりとカーテンを翻し、部屋の埃を払うかのように舞い込んだ。
 優しい風の手が私の頬を撫で、涙を拭い去っていく。

 カーテンレースからは外の青空が透けて見えた。
 ちゅんちゅんと音が聞こえたかと思うと、雀の影が2匹ほど見え、番となってベランダで死んだ緑色の虫を啄んでいる。

 半分に千切れた虫は、羽をぼろぼろと散らせ、無残な形となって散らかった。
 その残骸は、都会のつむじ風に乗って、住宅街のどこかへと飛んで行った。

 私の体はソファーに沈み、緩んだ右手は握っていたものを床に落とした。
 カランカランと音をたて、空の小さな注射器がコロンと2つ転がった。
 針先から雫がぽたぽたと落ち、水たまりが出来ている。

 水槽では、丸々超えた金魚が白いお腹を水面に浮かせ、気持ちよさそうにぷかぷかと波に揺られていた。

 あぁ、なんて良い日なのだろうか。
―――私の渇きが笑った。

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『睡蓮』
花言葉:純情、滅亡

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静 霧一/小説
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