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【短編⑧】言葉は脆く、されど踊る

「ふぅ、疲れた……」

 ガチャリと玄関のノブを引き、真っ暗な部屋の電気をつける。
 片手にぶら下げたコンビニ弁当と発泡酒をテーブルの上に置き、スーツを着替えないまま、ベッドへと寝ころんだ。

 明日で、あの少女と出会って一ヶ月が経つ。
 人の心を読むだなんてすごい能力じゃないかと浮かれていた自分が阿呆のようだ。

 本当に碌でもない。
 私は少しばかり感じていた会社という組織への恩義も、新卒で入社した同期の友人への信頼も、過去の恋人への清廉な思い出も、その全てを失った。

 人の心は知れば知るほど醜い。
 本来の姿がそうなのだとわかってはいるが、脳みそが理解をしてくれない。
 私は性善説を無意識に信じていたようで、人の外面だけを見て信頼してしまっていた。

 本当に碌でもない。

 ふと、涙が出た。
 理由もなく、一筋の涙が頬を伝う。

 自分が信じたものがよくわからない。
 言葉だけを信じていれば、どれだけ幸せだったのだろうか。

 人は強欲なのだと、私は知った。
 強欲は身を滅ぼし、魂を犯す。

 私はそっと目を瞑った。
 部屋の明かりが目の裏に映り、赤く光っている。

「あぁ、情けねぇな……本当」

 そう呟いた声は震えていた。
 その瞬間、とめどなく涙が流れ出た。
 感情が溢れ出し、思い出とともに枕を濡らした。

 自分が信じていたものが、すべて紛い物だったのだとしたら、私はなんて滑稽だったのだろう。

 あの思い出も、この思い出も、あの笑顔も、この笑顔も、全部が全部嘘だったんじゃないか!

 自分が費やしてきた時間の全てを呪った。

「クソ……」
 ただ一言、今の私にはそんな言葉しか口にすることしか出来なかった。
 それでも、やはり最後には美佳の笑顔が浮かんだ。

 自分はそれをやはり最後まで信じていた。
 あぁ、枕がぐしょぐしょで気持ち悪い。

 取り替えたいけど、少しだけ眠いな。
 そうして、私はいつの間にか力尽き、そのまま夢の世界へと落ちていった。

 目が覚めると、すでに日は昇っており、カーテンからは太陽の光が差し込んでいた。
 私はいつの間に寝てしまったんだと、スマホの画面を見ると、時刻は9時を回っていた。

 スーツが皺だらけになっていて、みっともない姿になっている。
 すぐさまスーツを脱ぎ、ハンガーへかけると、スチームアイロンをセットした。

 着ていたワイシャツも脱ぎ捨て、身軽な部屋着へとすぐさま着替える。
 ピピピという音がし、アイロンの温度設定が完了した知らせが鳴った。
 私はシューという蒸気をアイロンに当て、丁寧に皺の伸ばしていく。

 何も考えず、ただただ皺を伸ばす。
 もしかしたら、この時間が私にとって最高に幸せな時間なのかもしれない。

 そんな時間も集中をしてしまえば、すぐに無くなってしまう。
 アイロンをかけ終わると、それをしまい込み、すぐさま風呂場へと向かった。

 汗でべたついた体を流していく。
 昨日の気怠さは残るが、それでもこのシャワーによって、張り付いた疲れが洗い流されたかのようにも錯覚する。
 蛇口を捻ると、きゅっという音がし、シャワーが止まった。

 水が壁を伝い、滴り落ちていく。

 思い込むようにして、私は風呂場に就いた鏡に顔を合わせた。
 細身ではあるものの、やはり社会人になると筋肉は落ちていくもので、サッカーをしていたころのあのしなやかな筋肉の筋は面影さへ残していない。

 少し変わらなきゃまずいかなと、腹の肉を摘まむ。
 そんなことをしていたら、急に背中に冷たさを感じ、私はさっさと脱衣所へと出た。

 濡れた体を拭い、髪の毛を乾かしながら、今日の服はどうしようかと思い悩んだ。
 そういえば、今日は何時にあの喫茶店に行けばよいのだろうか。
 時間を全く決めていなかったことに、今更ながら戸惑う。

 前回と同じ時間で間違いないよなとスマホの画面を見ると、未だ時刻は10時であった。
 時間にまだまだ余裕はある。

 何故だか、今日は不思議と気分が昂ぶっていた。
 それはあのフランス人形のような少女に会えるからなのか、散々に泣き腫らしたためなのか、それともその両方なのか。

 鼻歌を歌いながら洋服ダンスを開けるが、これといって勝負服などまるでなく、灰や黒や紺などの無難な無地のTシャツが並ぶ。
 そんな私でもジャケットは一枚だけ一張羅となるものを持っていた。
 それも紺色のジャケットなものだから、必然的に選ぶ色は灰色となる。

 果たしこれは、シンプルなお洒落となるのか、はたまた、味気ないお洒落となっているのかは私が決めるものではない。
 そうして自信ありげに洗面所の鏡の前に立った私は、いつもならしないであろう、髪の毛のセッティングまでする始末だ。

 ある程度準備が整ったものの、特にこれといってすることもない。
 私は、ふと思い立ったように仕事用の鞄から一枚の用紙を取り出した。
 この用紙ぐらいは手書きで書こうと、わざわざ記入欄を空白にして印刷をした会社への「退職届」であった。

 この申請書に何度向き合っただろうか。
 それもこれも全て自分の不甲斐なさによるものだが、幸か不幸か、私は人の心を読むという力を得た経験が、こんなにも背中を押してくれるものだとは思わなかった。

 安いボールペンを握り、定型的な文章をすらすらと書いていく。
 案外、例に倣って書き終わってしまえば、所詮契約ごとだったのだなと呆気にとられる。

 私はベランダへと出ると、マルボロを一本咥える。
 赤い火の灯ったマルボロは先端から白い煙を揺らめかせ、立ち昇っていく。
 どこからか茜色の枯葉が一枚、風に舞ってはひらひらと飛んでいる。
 空は変わらず青く、立冬の涼し気な風が私の髪を撫で、マルボロの煙と踊るように通り過ぎていった。

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静 霧一/小説
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