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静 霧一『白雪姫は雪と共に眠る』(下)

※前編はこちらから


『雪月症』
 私がこの病気を初めて知ったのは、彼女が入院を初めて3日後のことだった。

 それを聞かされた時、私はそれは絵本の中の物語だと勘違いするほどに、奇妙なものであった。
 彼女はどうもその『雪月症』というものに罹ってしまったらしい。

 世界的にも稀な病気であり、発症理由も謎なのだという。
 だが、その病気の発現には共通点があり、罹患者はそろって雪の降る日に眠りにつくということであった。

 眠りについている間に、罹患者の肌はだんだんと白くなり、不思議とお人形のように美しくなっていくことから、またの名を『白雪姫症候群』と呼ばれているのだそうだ。

 私は白いベッドに眠る彼女の横に座りながら、ただ彼女がその眠りから覚めるのをじっと待っていた。
 今まで見ることなんてなかったテレビの天気予報を逐一見るようになり、晴れになれ晴れになれと毎日のように祈った。

 だが無情にも、雪は降り続けた。
 途中、晴れの日もあり、長い眠りから彼女がふと目を覚ますこともあったが、朦朧とした意識は完全に覚めることなく、また眠ってしまうことを繰り返している。

 私は彼女が起きているその短い時間にできる限りのことを話した。
 英語のテストで100点を取ったこと、近くのケーキ屋で美味しいケーキの新作が出来たこと、隣町のショッピングモールに有名なカフェが入ったこと。

 私は言葉を連ねた。息など忘れてしまうほどに。
 彼女は私の話を聞きながら、うんうんと頷き、私が息を切らすたびに「ありがとう」と呟いていた。

 私は面会後の帰り道はいつも泣いていた。
「ありがとう」と彼女が言うたびに、私の心の奥のほうがちくりと痛むのだ。

 最初は下心だった。
「中目黒」に住んでいるなんて言うから、私は彼女はてっきりお金持ちで、この子と付き合っていれば何かいいことがあるんじゃないかと期待していた。

 彼女は私の下心をもしかしたら見透かしていたのかもしれない。
 それでも優しく笑って、いつも最後は「椎名さんって優しいね。友達になってくれてありがとう」と言ってくれていた。
 いつしかその言葉が私の下心を食い尽くし、いつの間にかそれが罪悪感として居つくようになっていた。

 面会前、私は病室の扉の前でいつも緊張していた。
 私の話す言葉で嫌いにならないだろうか、私の態度が鼻につかないだろうか、そればかりが頭の中を駆け巡るが、いざ彼女と対面すると、今まで霧がかかっていた景色は霧散して、そこには綺麗な花畑が広がる。

「あぁ、そうか。きっと私、あなたのこと―――」
 私は温かなベッドの中で夢を見ながら、涙で枕を濡らした。

 ◆

「寒冷前線が近づき、局地的に大雪となるでしょう」

 テレビの向こう側で、天気予報のお姉さんが険しい顔で天気を告げた。
 週間天気予報は全て雪のマークを表示し、私の背中がぶるりと震えた。

 1月の雪は、連日降っても薄っすらと風景を雪化粧ぐらいであったが、2月に入ってからの雪はそれの比ではないと母に言われ、雪かきをする準備を家では整えていた。

 なぜだかわからないが、嫌な予感がする。

 学校の授業が終わると、私は急いで彼女の入院する病院へと向かった。
 病院へと向かう途中、しんしんと音もなく雪が降り始める。
 私はその雪が肌に当たるたびに、雪なんて溶けてしまえと涙目になりながら生き急いだ。

 息を切らしながら病室へ入ると、そこには白衣を着た医者とそして泣きながら背中を丸める彼女のお婆ちゃんの姿が目に飛び込んだ。
 子供のように泣きじゃくるお婆ちゃんの背中を看護師が優しく摩り、「大丈夫ですよ」とひたすらに呟いていた。

 私が病室の中へ足を踏み入れると、皆の視線がこちらへと向いた。
 私はただ茫然としながら、その風景を眺めていた。

 そこからのことは未だに記憶が曖昧だ。
 覚えていることと言えば、「白井 姫乃はこのまま眠り続けるだろう」ということであった。

 私は『雪月症』のことなどよくわかっておらず、雪が止めばまた元通り起きるのだろうと思っていた。
 だが、現実はそんな簡単なものではない。

 積雪量が増えるとともに、彼女の体温はそれと比例するように徐々に低下し始めた。
 人体というのは、熱を失ってしまえばやがてを死を迎える。
 このままだと1週間で彼女は死を迎えるだろうと、医者は淡々と告げた。

 こんな僻地の病院でできることなどたかが知れており、この稀な難病の対処療法なども確立されていないため、私たちはただ雪が降り止むことを祈ることしか出来なかった。

 彼女が静かに眠っている間、私は彼女のお婆ちゃんから彼女が東京にいた時の話してくれた。
 そこには私が見たことのない彼女の笑顔があって、私は思わず泣いてしまった。

 彼女は淡々と父親が自殺したことや母親が精神病院で入院していることなどを話していたが、そんな風になってしまったのも、あまりにも都会の空気が醜悪だったからだとお婆ちゃんは泣き出してしまった。

 彼女の周りにいた友達も、彼女の家からお金が無くなると分かれば友達でいることをやめ、その親たちも、ひそひそと「あそこ家は不幸だ。近づかないほうがいい」と囁き始め、そしてあろうことか彼女は受け止めきれる筈もない罪悪感を背負い、ある日、浴槽で手首から血を流しながら意識を失った姿が発見された。その時、母親も家にはいたらしいが、ソファーの上でぶつぶつと虚空を見ながら呟いていたのだという。
 目が覚めた彼女の瞳の奥の光は、すでに輝きが消えてしまっていた。

 不幸とは雪に似ている。
 最初はただ一粒の小さな雪の結晶であったはずなのに、次第にそれは結晶同士が手を結びあって、より硬く大きく、その姿を変容させる。
 彼女の中の小さな不幸が、次々と連鎖する不幸とつながり始め、気づけば自分を圧し潰してしまうほどになってしまっていたのだろう。

 私は拳を握った。掌に爪が食い込むほどに。
 悔しかったのだ。
 ただ、のうのうと暮らし、両親がいて当たり前、友達がいて当たり前、幸せなことが当たり前と思っていた自分があまりにも情けなかった。

 ◆

 次の日、私は花屋で花束を買った。

 彼女にどんな花が似合うだろうと、花屋の店員に相談したが、結局私が選んだものは白い花ばかりで、いざ出来上がってみれば、純白の花束になっいた。
 それがまるで、いつかのドラマで見た花嫁のブーケのようで、なんだか私は少し照れ臭くなってしまった。

 私は花束を片手に、病室を訪れる。
 彼女はすやすやと眠ったままで、私は彼女の横にあるテーブルに花瓶を置いて、手に持った花束をそこに生けた。

 そして彼女の枕元の近くまでパイプ椅子を持ってきて、彼女に話すように、昨日の出来事を笑いながら話し始めた。
 私には彼女の目覚めを待つことしかできないのだから、せめて私は彼女の隣で笑っていたいのだ。

 それは次の日も、そしてまた次の日も続いた。
 病室に響くのは、規則的になるバイタル音と彼女の寝息だけであったが、私はそんなことなど気にも留めず、話し続けた。

 6日目のことである。
 私はいつものように帰ろうとしたが、その日は特に雪の積もり方が早く、看護師から今外へ出るのは危険だからと言われ、日の落ちた後も病院を出ることができなかった。
 母に電話をしたが、看護師と同じく「危ないから病院に居なさい」と言われ、私は初めて病院に泊まることとなった。

 先ほどまでいた彼女の病室へと戻り、私はまたパイプ椅子に座る。
 姫乃は相変わらず眠ったままだが、私にはそれが愛おしくてたまらなかった。

 ふと、私に睡魔が優しく背中を撫でる。
「少しだけ……」と思った瞬間、私は夢の世界へと誘われていった。


 そこは薄暗い森であった。
 濃霧のせいか視界が見ずらく、私は当てもなく彷徨った。
 木に当たらぬよう、慎重に前に手を伸ばして進んでいくと、私の前を駆けていく足音が聞こえた。

 私はその足音の後を追いかけるように進んでいくと、遠くに霧から淡い光が漏れ出している場所があり、私は導かれるようにしてその光に向かった。
 その光は次第に大きくなり、目が眩んで思わず「わっ」っと叫び、目を伏せる。

 光が徐々に弱くなっていき瞑った目を開けると、そこには以前夢で見た花畑が広がっていた。
 前には気づかなかったが、この花畑はなだらかな丘となっており、私は丘の頂上に向けてゆっくりと歩き始めた。

 しばらく歩いていると、頂上のほうに、誰か人がいるのが見える。
 目を凝らしながら進んでいくと、それは白いワンピースを着た姫乃の姿であった。

 私は思わずその姿に息が止まり、そして慌てて走り寄った。
 私が走っていくことに気付いたのか、彼女はこちらへと振り向き、微笑んだ。

「姫乃ちゃん!」
 私は彼女に抱き着いた。

「どうしたの、そんな泣いて」
 彼女は優しく私の頭を撫でた。

「ごめんね、ごめんね」
 私は泣きながらひたすらに謝った。
 彼女は何も言うことなく私の頭を胸元で優しく撫で、「ありがとう」と耳元で囁いていた。

「美咲ちゃん、あのね」
 彼女は私の頭を撫でながら話し出した。

「どうしたの?」
 私は喉を詰まらせながら答えた。

「私、もう行かなきゃいけないみたいなの」
「どこへ……?」
「空の向こうの、ずっとずっと遠くのほうだよ」
「いやだ、行かないで!」
 私は彼女がどこかに行かないように、泣きじゃくりながら必死に抱き着く。

「美咲ちゃんなら大丈夫だよ。だって強いもん」
「私なんて強くないよ……。姫乃ちゃんがいない世界なんて」

「―――それ以上は言っちゃだめだよ」

 彼女はそう言うと、私の首の後ろに手を回し、そしてそのまま唇を重ね口づけをした。
 私は一瞬驚いたが、彼女から流れ込む温かさに溶け出し、そうしてゆっくりと身を委ねた。

「私ね、美咲ちゃんのおかげでこの場所に来れたんだよ」
 彼女は空の遠くを見ながら言った。

「ここはどこなの?」
「わからない。だけどとても心地よくて、私は好きなんだ」
「そうだね」
 あたりには、花の香りが漂い、風がそよぐたびに花の揺れる音がしている。

「ずっとここで美咲ちゃんを待ってたんだよ。来てくれてありがとうね」
「私をここで……?」

「うん。私ね、引っ越してきたとき、もう何もかも嫌になってたの。所詮、人なんてみんなゴミだとさえ思っていたの。だけどね、美咲ちゃんと話し始めてからそんなことないって思えてさ。やっと冷たい氷の世界から抜け出せると思った矢先にさ、雪月症に罹っちゃうんだもん。本当はもっと美咲ちゃんとどこかに行きたかったな」

「そんな……もっといろんなところに行こうよ!ね?雪が降りやめば目覚めるんだよ!」
「ううん、私はいいの。もう苦しくなりたくないの。せめて、美咲ちゃんとの楽しい思い出も、美咲ちゃんを好きなこの心も温かいまま抱いて、それで美しく死ねるのなら、私はそれで満足よ」

「そんなこと言わないで……!」
 そういうと、次第に花畑がぼやけていき、あたりが眩しくなっていく。

「ありがとう、美咲ちゃん」
「待って……待ってよ!まだ私あなたに何も伝えてない!」
「美咲ちゃんからはたくさんのもんをもらったよ。本当にありがとう。だから最後に言わせて。私、美咲ちゃんのこと―――」
「姫乃ちゃん!私、あなたのこと―――」

 2人の声が重なる。

『―――大好きだよ』

 世界が眩い光に包まれ、私は夢から遠ざかっていった。

 目が覚めると、いつもと変わらない彼女がそこにいた。
 その手はひんやりと冷たく、ピクリとも動かない。
 眠っているかのように見えるその姿は、まるで御伽噺の中の「白雪姫」のように美しかった。

「行ってしまったんだね」
 私はそう呟き、彼女の頬を撫でる。
 その表情は、少し優しく微笑んでいるようにも見えた。

 ◆

 私は東京の夜空を見上げながら、初めての恋を思い出していた。

 あの頃から、私は変われたような気がする。
 未だに、あなた以上に「愛してる」って言える相手とは出会えてないけれども、きっといつかあなたの分まで幸せになろうと思う。

 でも、もしわがままを言えるのであれば、もう少しだけ、あなたを感じていたかった。
 大人になった今でも、雪を見るといつもそう願ってしまうの。

 全ては雪のせいだ。
 私の瞳に涙が潤む。

 ここで止まっちゃだめだよね、姫乃ちゃん。
 私は両手をコートのポケットに入れ、一歩、道を踏み出す。

「ねぇねぇ、美咲ちゃん。次はどこにいこっか」
 雪に紛れて、優しい声が聞こえたようにも思えた。


 おわり。

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静 霧一/小説
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