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静 霧一 『五月の迷える子羊』(上)


「香奈先輩、さっきから溜息ばっかりついてどうしたんですか?」
 芽衣が店内の床をモップで掃除ながら、私に問いかけた。

「んー?五月病だよ、五月病」
「ふーん」

 私は客席のテーブルを一生懸命に拭いていたせいか、あまりその質問に頭を回す余力もなく、適当な受け答えを彼女にした。
 大した面白くもない回答に彼女は興味を失ったのか、それ以上深堀されることはなかった。

 お店の時計が夜9時30分を指し、退勤時刻まであと30分となった。
 今日は5月の連休明けの平日のせいなのか、喫茶店への客の出入りが少なく、閉店時間の夜9時を回るころには、店内に私と芽衣、そして厨房にいる店長の3人だけであった。

 いつもであれば閉店時間に差し迫っても、動じずに本を読んでいるおじさんがちらほらいるものだが、そんなめんどくさい人が今日は不思議とおらず、仕事が早々と片付いてしまっている。
 私は残り30分をどう過ごそうかとやきもきしていたが、今まで目につけようともしなかったテーブルの汚れが目に映ったので、暇つぶしにとごしごしテーブルを白い雑巾で擦っていた。

 思い返せば、確かに仕事中、喫茶店のカウンターに戻ってくるたびにため息をついていたのかもしれない。
 あまりにも無自覚だったので、それが本当なのかはわからない。
 ただ、テーブルに長年付着していた汚れが今まさに綺麗に剥がれ、喜びの感情が出るのかと思いきや、私の口から出たのは深いため息であった。

 自分でも自覚できるため息に、あぁ芽衣が言っていたことは本当のことだったんだと実感する。
 私は自分に五月病と言い聞かせてはいるが、実際は自分が五月病なんかではなく、ただただ普通に失恋で落ち込んでいることを知っていた。

 私の失恋はちょうど今から数えて3週間前の出来事だ。

 私の好きな人が、放課後の誰もいない教室でその人の好きな人に一枚の手紙を書いていたところを目撃してしまった。
 失恋というには少し仰々しいかもしれないが、それに近しいものだと私は感じている。

 今までそんな様子を見せてこなかった沙也の行動に、私は強気ながらも内心はぎこちなく不安にかられていた。
 前々からその恋愛感情は知っていたが、幼馴染ということもあって、友情と恋情の区別があまりついていなかったようで、あまりにも鈍感な沙也はその好きな幼馴染に対して、今まで好き避けのようなわかりやすい恋愛行動も起こしてはいなかった。

 沙也が変わったと思えたのは、春休みが終わった新学年での出来事だった。
 私と沙也は高校三年生へと進級し、たまたまなのか三年間クラスを同じくしていたので、休み時間は飽きずによく駄弁っていた。

 とある日、少しだけその駄弁りにこまごまと"間"が挟まれることに、私は少しだけ違和感を覚えた。
 私は注意深く観察しようと、駄弁りの途中に現れる"間"を見逃すことなく捕まえようと少し身構える。
 そう決意してから、お昼休みに沙也と一緒にご飯を食べていたが、案外すんなりと"間"を捕まえることができた。

 その正体は、沙也の視線の先にいた星野 秀一であった。
 同じクラスにいた星野は、バスケ部仲間3人と机を囲み昼飯を食べている。
 そこで笑い声がするたびに、ちらちらとそちらへ視線を動かす沙也はわかりやすく、これはもう重症ですわと私は判断した。

「ねぇ、さっきから目に星野くんが映ってるよ」
「えぇ!?あぁ、ごめん……」
 図星の反応に少し私は嫉妬した。

「春休みになんかあったの?」
 ストレートに私は沙也を問いただした。
 今まで星野くんの一挙手一投足を隠れながら目で追うことなんてしなかったのに、春休みが終わったとたんから音階を一つ外したようなテンポのズレが彼女にはあった。

「あ、うん……。あとで話すよ」
 沙也の顔に少しばかりの影が差した。
 私は彼女の心の中に、それ以上深入りすることはなかったが、結局今になってもその事の詳細を話してくれることはなかった。

「ねぇ、芽衣。自由に人を好きになってもいいと思う?」
 無意識に口が空いていた。
「香奈先輩どうしたんですかいきなり。さっきまで五月病だとか言って呆けた顔してたくせに」
 芽衣はモップで床を掃除する手をやめ、モップの持ち手の先っちょに顎を乗せながらじっとこちらを見つめている。

 わたしは持っていた雑巾を、先ほどまで掃除していたテーブルの上に置き、テーブルに後ろ手に手を掛けながら腰を座らせた。
「自分でも不思議だわ。なんでそんなこと聞いたんだろ」
 溜息もそうだが、今日はなんだか無意識というものに体が支配されているような気がする。
 らしくない行動にはらしくない言葉が続き、多分それはらしくな私の心の持ち様からきているのだと感じた。

「香奈先輩、もしかして片思いでもしてるんですか?」
 芽衣の口元がニヤリと笑い、そこから白い八重歯が見えた。
「わかる?」
「わかりますよ。普通の人がそんな哲学者みたいなこと言いませんもん」
 はははと笑いながら、持っていたモップを壁に立てかけると、空いた客席のソファーへと座り込む。
 それを真似るように私も向かい側のソファーに座り込み、彼女と対面した。

「香奈先輩だって私が叶いそうにない片思いしてるの知ってるでしょ」
「あぁ、たしかに」
 二人に笑みがこぼれた。
 そして視線をカウンターの隙間から見えるキッチンへとやると、そこには黙々と明日の仕込みをする店長がいた。

「なんで好きになっちゃったんだろ」
 芽衣が頬杖をつきながらため息を漏らす。
 そのため息は何かに落ち込むとか、不幸を嘆くとかそういう類のものではなくて、自分自身に対して「ああなんて私ってバカなんだろ」っていう呆れの色が見えた。

「あんなくたびれた顔の店長のどこがいいの?」
 私はここぞとばかりに、いまいち良さのわからない店長への思いを聞き出す。
 店長の年齢は45歳と渋いが、この古びた喫茶店には似つかわしくないほどに短髪の黒髪が似合う爽やかな男だ。
 だけどたまに垣間見える影の差したような顔が、どこかこの喫茶店『Gatsby』の雰囲気と混じりあっていた。

「さぁ。どこがいいのかさっぱりわかりません」
「わからないってどういうこと?」
「それがわかれば苦労しませんよ。気づいたら好きになってたんですもん」
「あー。なんかわかる気がする」

 私も一目惚れであればどれだけ良かっただろうかと何回も考えたことがある。
 あの夢心地の感情は、好きなところだけを見た空想の塊であって、嫌いなところがあれば一瞬にして夢から覚めることができるからだ。

 だけど私たちはもう、どこが好きなのかさえ分からないほどに好きな人に片思いをしてしまっている。
 好きなところも嫌いなところも徐々に好きになってしまったこの感情は、現実と夢の境界線を溶かしていき、もはや寝ても覚めても頭の中には好きな人を思い描いていた。

「そういえば香奈先輩の好きな人ってどんな男ですか?同級生ですか?」
「半分正解。好きなのは女の子なんだよね」
「……えっ?」
「だよね。おかしいと思うでしょ」
「いや……、あの……少し驚きました」

 芽衣の目が点となる。
 それもそうだ。私の見た目は茶髪にパーマをかけて校則違反のネイルをがっつり爪に施しているゲーセンにでもいそうなギャルそのものなんだから。

「男の人だって好きだよ。でも本気で好きになった人が女の子だったんだ」
「どうして好きになったんですか?」

「最初は友達だったんだよ。本当に普通の。でもね、笑ってる顔が可愛くてさそいつ」
「香奈先輩……意外です。なんか先輩がそんな風貌でセンチメンタルになるなんて」

「突っ込むとこそこかよ。もっとなんかあるだろう」
「ごめんなさい、つい面白くて。あ、もしかして先輩の好きな人って水無瀬会長ですか?確かに綺麗ですよね、容姿端麗で弓道も全国まで行っちゃって、私でも好きになっちゃいますよ」

「残念、ああいうのには興味ないんだわ私」
「え、違うんですか?」

「あんないかにも少女漫画から出てきましたって女、どこを好きになれっていうのさ」
「うーん、たしかに言われてみれば……」

「芽衣の好きな店長だって、どっからどうみても白馬の王子様ってガラじゃないじゃん」
「それはわかります」

 二人はカウンターから見えるキッチンに目を移すと、店長が振り向いたタイミングで目が合った。

「おーい、二人とも。上がる準備しとけよ」
 キッチンから私たちに呼びかける声が飛んできた。

 気づけば時計は9時50分を指していた。
 掃除道具を事務所の用具入れに片付け、タイムカードを切ると、さっさと更衣室で制服に着替え、帰り支度を始めた。
 店から出る直前、レジ前で灰色のシャツにこげ茶のソムリエエプロンをした店長が珍しく私たちを待っていた。

「お疲れ様です店長。どうしたんですか?」
「あぁ、二人に渡したいものがあってね」
 よくみると、店長の手には二つの持ち帰り用のお店のロゴの入った紙袋を下げていた

「はい、これ芽衣ちゃんと香奈ちゃんに」
 その紙袋を二人に手渡す。中を覗くと、そこにはこじんまりと白いケーキの箱が入っていた。
「これどうしたんですか?なにかいいことでもあったんですか?」
 芽衣が店長の顔を見ながらニヤニヤと笑っている。

「逆だよ逆。いいことを呼び込むために君らにそれを渡したんだよ」
「ふーん」
 そういえば店長のいいことがあった話なんて聞いたことがない。
 自分から話したがらないところもあるから、あまり店長のことを知らない部分もあるけれどもどこかあるであろう幸せを願っている様子は伺える。

「それ、来月から出そうと思ってる新作のケーキなんだ。よかったら試食して感想聞かせて。業務命令ね」

 ケーキという言葉に女は弱い。
 だけど最後につけた業務命令という言葉は全人類の嫌いな言葉だ。

「私生活にまで業務命令してくるなんて、パワハラですね」
「じゃあそのケーキ返してもらおうかな?」
「冗談ですよ冗談。美味しくなかったらバイト辞めますからね」
「それは一大事だな。お口に合うことを祈ってるよ。じゃ、お疲れ」
「「お疲れ様でーす」」

 私たちは喫茶店を出て、いつものように近くの駅の駐輪場に自転車を取りに行く。
 芽衣とは正反対の位置に家があるため、自転車の帰り道はいつも一人で帰っている。

 駅から遠ざかるように、閑散とした大通りを真っすぐに自転車を漕いでいく。
『宮之原駅』には国道へと伸びる道が真っすぐ開通しており、その国道を突っ切った先の住宅街の中にある三階建ての白い一軒家が私の家であり、駅からは15分ほどの距離があった。

 住宅街の道を自転車で走る途中、私はふと何気なく夜空を見上げた。自転車を止めたブレーキの音が、静かな住宅街に鳴り響いていく。
 昼間の雨が嘘のように、湿ぼったい夜の空には、点々と広がる星が電線越し見え隠れしている。

 夜空には唯一私が知っている北斗七星が空に輝いていた。

 北斗七星は、私が最初にして最後の星座観察で覚えた星座であった。
 小学生の時、学校の宿題で「夜空の星を観察してみよう」という宿題が出たことがあったが、私は星になど全く興味はなく、何一つとして夜空の星座を見分けることができなかった。
 理科の先生が5月の星座のことを説明してくれたが、北斗七星については授業内容とは関係ないうんちくを熱く話していたのを覚えている。

 北斗七星という名前は中国から伝来したものらしいのだが、中国での思想いわく、北斗七星は人間の行いを調べ死後の行く末を決める神が宿っているとされ、日本でいう閻魔大王の象徴のようなものらしい。
 そんな似つかわしくない意味の持つ星に私は惹かれ、今となっても夜空の北斗七星を見るたびに、その美しさに思いを馳せていた。

 私はもう一息と自転車を漕ぎはじめ、お腹を空かしがながら家へと帰宅した。
 ケーキを冷蔵庫の中にしまい、自分の部屋へと駆け込み、すぐさま部屋着へと着替えると食卓へと足早に降りて行った。

 冷蔵庫を開けると、母が作り置きしてくれた夕食を出し、リビングのテレビでバラエティ番組を見ながらそれを空腹に任せ食べ進めた。
 7割を埋めた私のお腹は、あと1割を求め、冷蔵庫から今日もらったケーキの箱を取り出した。

 私は箱の中身を小さな薄青色のケーキ皿に移す。
 ケーキを見た瞬間、あんな店長からどうしたらこんなお洒落なものが作りだせるのだろうかとすこし笑ってしまった。

 店長が作っていたケーキは円柱型の白いベイクドチーズケーキであった。
 生地にはタルト生地を使い、白いチーズの上には赤いイチゴが折り重なるように置かれている。
 それはまるで青い水の真ん中に白い塔がぽつんとそびえたつような絵のようであった。

 パシャリと1枚写真を撮り、コーヒーカップにカフェラテを注ぐと、私はケーキにフォークを入れた。
 舌触りが柔らかく、ほのかに香るチーズの匂いと甘酸っぱい味が私に至福をもたらす。
 ケーキを食べながら、その写真を沙也に送ろうとチャットメッセージに彼女のアイコンを探した。

 彼女のアイコンには、桜を背景に撮った私と沙也の二人で並ぶ写真がいつものように表示されている。
「いつも通りのメッセージを送ればいい」なんていつも頭では思うのだけど、好きな人に対して送るメッセージほど友達らしさを出すのにいつも頭を捻らせる。

 震える指をタップしながらメッセージ画面を開いた。
 写真にはなんてメッセージを送ろうかと何度も何度も、小さい文字を書き連ねては消してを繰り返す。
 たった一文、何気ないその一言が私にとってはとても重要で、返信がなかったらどうしようといつも恐怖に怯えている。

『うちの喫茶店の新作のケーキ! 今度一緒に食べよう!』
 写真とともに送ったメッセージを考えるのに15分もかかっていた。
 私は食卓の上に携帯の画面を伏せるようにして置き、ふぅと一呼吸置いた。

 いつも返信を待つこの緊張感はとてもじゃないが好きにはなれない。
 私は椅子の上で体育座りをしながら脚の間に顔を埋める。
 静かな携帯が震える音を待ちながら、私は瞼を閉じ、静かに涙をこらえた。

(続く)

※前日譚はこちらから


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静 霧一/小説
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