静 霧一 『愛Qと算盤』

 
「57826」

 緑色の数字がブザーの音ともに、黒い画面に表示された。
 私は即座に頭の中の算盤の珠を弾いた。

「39718」
「87605」
「91529」

 ゼロコンマで次々に放たれる数字の弾丸を、私は算盤の珠で寸分違わず撃ち抜いていく。

「76953」
「41835」

 私はすでに息を忘れていた。
 研ぎ澄まされた神経は、ただ一つの答えを導き出すことだけを、静かに狙っていた。

「答えは?」
 先生が私に問いかける。

「395,466」
 私は画面をじっと見つめながら答えた。
 すでに私の頭の中には先生のいう言葉が導き出されている。

「正解」
 先生は驚いた表情をしていたが、私はすでに未来に存在したXの回答を言い当てたに過ぎず、その凄さというものをいまいち理解することが出来なかった。

 見慣れた数字、ありきたりな計算式、単純明快な答え。
 算盤塾に通い始めて10年が経つが、すでに私の目の前に古めかしい算盤はなく、頭のなかの空想として存在するほどにまでなっていた。

「ねぇ、望月さん。あなた全日本出てみない?私、推薦するわよ?」
「いいえ、興味ありません。申し訳ありませんが」
「そうよねぇ……。なんでもないわ、忘れてちょうだい」

 先生は少し引き攣った笑顔を浮かべながらも、その裏に少しだけ悲しみを滲ませていた。
 私はその滲み出て床に垂れた悲しみの紫をじっと見つめることしかできなかった。

 先生の言わんとすることはわかる。
 フラッシュ暗算の全日本選手権に出て少しでも私の名前が売れれば、この算盤塾の名前も売れることになり、それが集客となって売り上げをもたらすのは明白だ。
 売り上げが上がった分、新しい機材や、黴臭いエアコンの取り換えに使ってくれればいいが、きっとそうはならない。
 その理由が、バタバタと2階の階段を駆け下りてきた。

「ゲーセンに行くから金くれ」
 だぼだぼの学ランを羽織ったオールバック姿の航大が先生に金をせびりに来た。
「授業中だから」先生は焦りながらも、財布の中から五千円札を取り出し、それを手渡した。
 航大はそれを奪い取るようにして受け取り、勢いよく外へと飛び出していった。

 算盤塾を経営する筧 典子の息子である航大は、地元でも有名なワルでこの算盤塾の穀潰しであった。
 同じ中学に通う同級生であったが、素行の悪く、よく警察と喧嘩をしている光景が目撃されていた。
 やれ遊びだ、やれ飲み会だと、中学生の癖に威張り散らし、先生から金を巻き上げていく。
 おかげで算盤塾の経営は毎月赤字をたれ流していた。

 恩情の中に、少しばかりの罪悪感が私の心に泳いでいるが、そんな光景を目にしていると、首を縦に振ることはなかった。
 先生には申し訳ないが、私は航大が生理的に嫌いである。
 同じ人間であるはずなのに、そうしてこんなにも知能指数に差が出るのかと疑問に思うほどだ。
 その大きく開いた差は、航大への嫌悪感として私の中に蓄積されていた。

 私も来年で高校生となる身だ。
 私の知能を育ててくれた鳥籠に居座ることはできないし、この両翼で羽ばたかなければならない。

「先生、申し訳ないですが―――」
 そう言いかけた言葉の先を、先生は黙ったまま汲み取ってくれたようで、最後に「お疲れ様」と声をかけてくれた。

 そうして、私は算盤という鎖を断ち切ったかのように思えた。

 ◆

「次、中国語の授業だけど杏ちゃん準備できてる?」
「全然出来てないや。今日テストだっけ?」

 私は中国語のテキストを開いた。
 見たことのある漢字が羅列され、その上にはピンイン(※中国語発音)が表記されている。
 ローマ字に似た表記であるが、この発音というのは厄介で、場合によってその発音が変わってしまう。
 発音総数は405個もあり、到底、そんなもの週に2回の講義で覚えられるはずもなかった。
 だが、私はこの機械のような発音が嫌いではなかった。

 私は大学の文学部へと進学した。
 高校ではあれだけ理工学部を進められたのにも関わらず、私はその進路を拒絶した。
 それもそのはずで、私の頭の中には、未だ算盤が根を張って棲みついているのだ。

 数字を見ればパチンパチンと珠を弾くその音が、私は不快で仕方なかった。
 その音がするたびに、あの古びた算盤教室の情景、そして見たくもないやさぐれた航大の顔を思い浮かべてしまうからだ。

 私は過去に蠢く数字の虫から決別すべく、文学部へと進学したのであった。
 文学部の授業は大変ではあったが、難しいと感じたことは一度もなかった。
 やはり暗算に長けた私の脳みそは、まるでコンピューターのような思考回路を持っているようで、ありとあらゆる答えを正確に導き出してくれた。
 ただ、一つの空欄を残して。

 私の思考回路は答えのない答えにはエラーを起こしてしまうようで、いつもテストではそこだけが空欄となっていた。
 受験の時もそうである。
 答えの用意された解答欄に文字を埋めることが出来ても、自分で回答を捻りださなければいけない問題についてはいつも難儀していた。

 あらゆる可能性を考えてはみるが、エラー、エラー、エラーの繰り返しで、私はそれを空欄で提出をした。
 他の回答が正解だったこともあって、たった一つの空欄があることはさして問題ではなかった。
 だが、私はそれが悔しくてたまらなかった。
 自分の存在がこの小さな解答欄にす書けないほどに薄いという事実は私を苦しめた。

 私は相手の感情に寄り添おうとする時、例えば友達の加奈子から「今日のお昼どこ行く?」と聞かれた時でさえ、私の頭の中にある算盤がパチンと音を立てて珠が動き、近くに出来た新しいイタリアンレストランでパスタを食べようという最適解を私の感情などを無視して弾き出してしまう。

 私はパスタよりもカレーライスを食べたかった。だが、私は食べたくもないパスタを選んだのには理由がある。
 私が自分の素直な感情に従い、「カレーライスを食べたい」と口にすると、私の脳みそはなぜ食べたいのかを因数分解し続けてしまい、脳みその大半をそれに費やしてしまう。
 結果として、思考をめぐる言葉が喉を堰き止め、吃音となってしまうのだ。

 そんなこと、加奈子の前ではしたくなかった。
 もしカレーライスを私が食べたいといったら、加奈子はそれを嫌がるだろうか。
「なんでカレーライスなの?」とか、そんな単純な質問に、複雑怪奇な私の因数分解の答えを押し付けるわけにもいかない。

 だから私はパスタを選んだ。それが私にとっての最適解であったから。

 いつもこうだ。
 私の好きではなく、他人の好きに合わせてしまう私。
 答えの用意されない答えになると、私はどうも萎びてしまう。
 そんな自分が私は嫌いだった。

 何度も頭を掻き毟ったが、頭の中の算盤は剥がれることはなかった。
 そして私はいつの間にか、他人の答えに依存するようになっていた。
 加奈子の後ろを歩く私は、彼女にばれないようにため息を漏らした。

 大学から15分ほど歩くと、目的地のレストランに到着した。
 イタリアンというよりかは、日本の古民家をおもわせるような雰囲気のお店であった。
 レストランには檜の板に「Giardino」と習字で書かれたであろう看板が掲げられている。

 時刻は14時00分を指していた。
 ランチタイムの波が引き始めたのか、お会計には2~3人の大人が列をなしており、財布を出しながら自分の番は今か今かと待ちわびて居る。

「何名様ですか?」
 同い年ぐらいであろう二十歳前後の女性ウエイターが、私たちを席へと案内した。
 タイミングよく、半個室のボックス席が空いたようで、私たちは柔らかなソファに腰を下ろした。

「なんか変わったお店だね。杏来たことあるの?」
 沙也が店内を見回しながら尋ねた。

「ううん。たまたまテレビで流れてたのを見たんだ」
 私がだらだらとしていた土曜日の朝のこと、たまたま大学周辺のお店特集をしていて、新店舗ということで取り上げられていたのがこの「Giardno」であった。
 日本食とイタリアンを組み合わせた料理を提供するお店であり、古民家風の外装からもそれは見て取れた。

 私と沙也は早速メニューを選ぶ。
 岩海苔のピザに、野沢菜とじゃこのパスタ、そして京野菜のカルツォーネと、日本各地の名産が使用されたメニューが並んでいた。
 その中にカレーライスはなかったものの、どれもが目新しいメニューの数々に、私のお腹は空腹に耐えかね、鳴き声を上げた。

 私たちは、オススメとされているランチメニューをそれぞれ注文した。
 ランチが運ばれるのを心待ちにしながら、私は沙也と他愛もない雑談をしていた。
 沙也の最近の口癖は「彼氏ほしい」ということばかりで、私はその何度も聞いた言葉に飽き飽きしながらも、「最近はどうなの?」とお決まりの言葉を返した。

 沙也の口から流れ出る言葉をラジオ代わりに聞きながら店内を見渡す。
 不思議と自分が落ち着ている。
 食器の音や話し声が、どのお店に行っても耳障りと感じていたはずなのに、このお店はどこか懐かしい居心地を思い出させた。

「お待たせしました、こちらランチメニューのパスタセットになります」
 ウエイターがほどなくして、食事を私たちのもとへと運んできた。
 ふんだんにきのこが使われている豆乳クリームパスタが白い湯気を立たせ、私の口に涎が溜まっていく。
 私と沙也は慌てるようにして、「いただきます」と合掌し、パスタの中にフォークを沈めた。

 口の中で踊るパスタは、豆乳とキノコの相性がバランスよく混ざり合い、そして最後にほのかに昆布の風味が香っている。
 普段小食な私も、この美味しさには手を止めることが出来ず、パクパクと食べ進めた。

 ふと、厨房から黒いシャツを着たコックらしき人物がこちらに向かってくるのが見えた。
 どうもその人物の目線はレジのほうに向いていたが、私はそのコックの顔を見て呼吸が止まった。

 私は先ほどまで進んでいた手を止め、レジのほうに振り返る。
 どうやらウエイターと何かを話しているようで、レジ内のお金の計算をしているようであった。

 パチンパチンパチン。
 懐かしい音が聞こえる。

 私はその音に耳を澄ませた。
 それは、あの算盤塾で聞いていた、先生が鳴らしていた算盤の音に似ている。
 どうしてこの音がするのだろうと、よくよくレジのほうを見ると、そのコックは電卓ではなく算盤で計算をしていた。

 あぁ、そうか。
 私の中でパチンパチンと算盤の珠が弾く音が鳴り始める。
 このお店の雰囲気がなぜこんなにもあの懐かしい算盤塾のような雰囲気に似ているのかの理由がそこでわかった。

 そのコックは、成長した航大の姿であった。
 中学生の時にみた、あのダボダボの服装なんかじゃなく、綺麗なシャツを着て、髪は短く整えられている。
 思わず、私の中の算盤の珠が違う音を鳴らした。

「あの人かっこいいね。杏、ああいう人タイプなの?」
 沙也が私の視線に気づき、にやにやとしながら私に尋ねる。

「いや、そういうんじゃ……」
 また私の中で算盤の珠が違う音を鳴らす。
 ダメだ、どうしても計算がずれていく。

 レジで作業を終えたコックはこちらへと戻って来た。
 私は思わず顔を伏せる。
 その後ろ姿はもうあの時感じた嫌悪感などどこにもなかった。

「―――航大」
 私は、思わず呟いた。
 その言葉に、彼は足を止めた。
 そしてゆっくりとこちらを振り向いた。

「望月……?」
 その瞬間、私の算盤がポップコーンのように弾け飛んだ。
 感情の因数分解が追い付かず、一桁の計算式でさえ覚束ない。
 なぜ彼がここで働いているのかはわからないが、きっとこれは運命なのだろう。

 私らしくない最適解が脳裏に浮かぶ。
 らしくない詩の一文が、空白の解答欄を埋められていく。
 あぁ、なんで私はこんなにも彼に一目惚れに溺れているのだろうか。

 思わず、私から笑みが零れた。
 どうも、私の愛Qは低いようだ。

 おわり。



いいなと思ったら応援しよう!

静 霧一/小説
応援してくださるという方はサポートしていただければ大変嬉しいです!創作費用に充てさせていただきます!