
夜に駆けない
深い眠りから目を覚ますと、君の匂いがした。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、外ではちゅんちゅんと小鳥の囀りが聞こえる。
横で寝る君は、いつものようにすうすうと寝息を立てていた。
いつも通りの日常なはずなのに、僕は君のその寝顔がどうしようもなく愛おしくて、相変わらずに美しい君の頬へと軽く口づけをした。
僕は彼女が起きないように、静かにベッドから降りる。
一つ分空いた君の横には、未だ僕の残像が形となって残り、そこに残る温度は朝日とともに浄化していった。
微睡みが覚めきらない意識を洗い流すように、透き通った冷たい水で顔を洗う。
鏡には、いつもと変わらぬ、君を好きな僕が映っていた。
目覚めと共に、僕はエプロンの紐を締め、台所へと立つ。
君が好きな食パンをトースト器へ入れ、ダイヤルを回す。
焼き上がるまでの間、冷蔵庫から卵を2つと厚切りのベーコンを2切れ取り出し、フライパンに油を引いて、ベーコンエッグを作る。
ベーコンの焦げ付いた香りが、部屋の中を漂い、君の目覚めを揺さぶり、ベッドからがさがさという音が聞こえた。
「おはよう」
眠い目をこすりながら、少し跳ねた寝癖をゆらゆらと動かす君が僕の後ろに立ち、そしてお腹のあたりに手を回した。
「こら、ごはんできるまで待ってて」
君はそれでも言うことを聞かずに、手を離さない。
「私ね、君の匂いが好きなの。だからもう少しだけこうしてたいの」
そうして君は僕の背中に顔を埋めた。
僕は仕方ないなと言って、そのまま朝食を作る手を動かす。
「ほら、出来たから椅子に座って」
「はーい」
そうして、僕らは食卓へと着いた。
食卓にはこんがりと小麦色に焼けた食パンと、食欲をくすぐるベーコンエッグ、そして青々としたサラダが小鉢に盛られ、白いマグカップにはカフェオレが湯気を立てていた。
「いただきます」
そうして、僕らは食パンへと噛り付いた。
ゆっくりとした時間だけが漂う。
「ねぇ、変なこと言っていい?」
テレビを横目で見る君に問いかけた。
「うん、いいよ」
君は僕のほうへ振り返り、頬杖を突きながら笑った。
「昨日、変な夢を見たんだ」
「どんな夢?」
「君がね。僕が昔いた高校の屋上のフェンスの向こう側に立ってて手招きをしてたんだ」
「それで?」
「"そっちにいったら危ないよ"僕が君に言うんだけど、君は"ここのほうが心地いいよ"って言うんだ。だから心配になって、僕も君の横に立ってみたんだ」
「その後どうしたの?」
「本当にね、心地よかったんだ。足を一歩踏み出してしまえば、地面に叩きつけられてしまうっていうのに、なんだかそれが幸せにも思えてね。君は"ほらね"って言うんだ。そしたらね、君が一歩そこから踏み出して、僕も釣られてその手を握ったんだ。僕と君の体が宙にふわっと浮いてね、そのまま落下しているはずなのに不思議とそんなことは思えなくて、まるで夜を駆けているみたいだったよ」
僕は目線を落とした。
夢の中の君は、確かに笑っていたが、その眼には夜明けを映してはいなかった。
君の潤んだ瞳の中の僕は、その涙で輪郭がゆらゆらと歪み、まるで羽が生えた天使のようにも見えた。
心地が良いはずなのに、どこか冷たい。
僕は、夢なら醒めてくれと願ってしまったが、愛おしい君を置いていくことなんてできなくて、思わず君の手を握ってしまった。
旋律を連弾するように、君との空気が混じりあい、歪な指先が絡み合っていく。
君を抱きながら見た暁は、まるで僕らの悲しみを燃やしてくれるような、そんな茜色をしていた。
僕の瞳を覆っていたぼんやりとした霧が晴れて、「あぁ、君は綺麗だ」と僕は力強く君を抱きしめた。
夢と現実の境界が溶け合っていく。
夢であるはずなのに、僕は君を抱きしめた感覚が未だに腕の中に残っている。
「不思議な夢ね、そんなこと私しないわよ」
君はため息をついた。
「知ってる。確かに心地よかったのは事実なんだけど、それでも今君の笑顔が見れるほうが何倍も幸せなんだ。君を離したくないって、君の寝顔を見て思ったよ」
「見ないでよ、恥ずかしい」
君は頬を膨らませる。
「君が起きるのが遅いせいだよ。しょうがないじゃないか」
僕は笑った。君も釣られて笑った。
「次は起きれる?」
「起きれるもん」
「朝食は?」
「朝食は……君の手作りが食べたいな」
「本当、わがままだね」
「いいじゃん、わがままぐらい言わせて」
僕は「そうだね」と返した。
「じゃあさ、僕も人生で最初で最後のわがまま言っていいかな」
「いいよ、聞いてあげる。あ、朝食以外でよろしくね」
「知ってるよ」と僕は笑った。
『―――僕と、結婚して欲しい』
君は、泣きそうな顔で一生懸命に笑った。
別の世界線でのお話。
Cateenさんのピアノからインスピレーションを受けて書き下ろさせて頂きました。
結ばれた2人に幸せを。
[楽曲]YOASOBI 「夜に駆ける」
※夜を駆けるの原案小説 「タトナスの誘惑」
※夜に駆ける考察
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