夜の女王のアリア
私は夜を貸した。
紛れもない、もう一人の私に。
最初はそんなつもりなんてなかった。
もともと私という人間は一人であるはずだし、もう一人私なんて存在するはずがない。
それがもし本当なのであれば、私の生きる世界はフィクションに塗れているとさえ思える。
そんな浅はかな私は、夜と朝を混合しながら、この狭く誇り臭い東京をふわふわと漂っていた。
ある金曜日の夜。
連日の残業の疲れがどっと押し寄せ、家に着くなり、床に荷物を投げ捨てると、その姿のままベッドの上にダイブした。
「仕事なんて辞めてやる」なんて、枕に顔を押し付けながら呟いてみるも、ただそれは枕を唾で濡らすだけで、それ以上もそれ以下もなかった。
勇気がなかったのだ。
仕事はつらいし、そもそも仕事に夢を持って入社したわけでもない。
自分の生き甲斐であった音楽制作の趣味を続けるために、ただただ惰性で働いていたが、今ではそれに手をつける気力もなくなり、いつのまにか仕事のための日々にすり替わっていた。
時々、「あ、今なら死んでもいいかな」とふと思ってしまうことのある自分を見つめ直すと、社会不適合者のレッテルを張られているようにも思え、精神が重篤末期ではないかと、自分に呆れ、ため息が出る。
ベッドの上で天井を見つめると、そこには無機質な白い壁紙が広がっている。
顔を横にずらせば、空になりかけた化粧水のボトル、糸のほつれたぬいぐるみ、いつかの結婚式でもらったカタログギフトが目に入った。
整理整頓が苦手なわけではないが、ここ最近、それすらも手が付けられていないことに私はふと涙を流した。
こんなことをするために大人になったのではない。
私はどうして大人になってしまったのだろうと、悩みが脳みその中をムカデが這いまわる感覚にさえ陥る。
どうしたものかと、あーとかうーとか唸っていると、ふと、体にスイッチが入った。
私はベッドから起き上がり、服を脱ぎ散らかしスウェット姿に着替える。
気持ち悪く張り付く化粧を落として、「よし」という掛け声とともに台所へ向かう。
冷蔵庫の扉を開けると、そこから銀色のレモン風味のスピリッツを2本取り出し、ふんふんと鼻歌交じりにテレビ前のテーブルに置いた。
ぷしゅりとその缶の蓋を開けると、乾いた喉に一気にそれを流し込む。
炭酸が喉に張り付き、若干の痛みが喉に走るものの、それはそれで一興であり、旨味でもあった。
一口で、缶の半分が空となり、残り半分も3~4口で空となった。
ふらふらとした足取りで台所に向かうと、戸棚の奥に入っていた非常用のカップラーメンを引っ張り出し、それにお湯を入れ、またテーブルへと戻る。
なんの面白さも生産性もないテレビをただ茫然とした目で流し見をしながら、カップラーメンをすする。
そして、新しい缶の蓋を開け、ちびちびと酒を体に流し込む。
2個目の缶が空になると、ふいに考えたくもなかった不安感が私の頭を襲った。
本当にこのままでいいんだろうか。
ふと、鏡面に薄く誇りのかぶった衣装鏡が目に映った。
私はいつから、自分の格好を気にしなくなってしまったのだろうか。
昔はこの鏡を見て、ずいぶんとお洒落もしたし、彼氏に会いに行く前なんかは、この鏡で髪型を整えたりもしていた。
だが、今じゃどうだ。
そんなお洒落だなんて言葉が遠ざかる容貌になり果ててしまっている自分を直視したくないために、鏡を見るのも嫌になっている。
「はぁ」とため息をつき、私はその鏡の傍に座った。
指でゆっくりと鏡面に触れる。
ひんやりとした冷たい温度が、その指の腹に伝わる。
ふと鏡の中の自分と目が合った。
何か瞳の奥を覗かれているような、そんな不安感を鏡像は煽る。
ふと、鏡に映る異変に気付いた。
洗面所で見た自分の顔は、ひどく疲れていてうっすらと目元にクマが出来ていた。
なのに、この鏡にはそんなものは映っておらず、むしろ2歳ほど若返ったような白い肌となっている。
私は首を傾げ、鏡に顔を近づけよくよく観察していると、突然、鏡の中の自分がゆっくりと口角を上げた。
私は思わず驚愕し、その場に硬直した。
これは心霊現象というものなのだろうか。
そうであったのなら、私は呪われてしまうのか。
そんなありもしない一抹の不安が、私の背中をなぞり、冷たくさせる。
「やぁ、そっちは元気かい?」
急に鏡の向こうの私が問いかける。
「元気……です」
私はその不可思議な鏡の向こうの私に反射的に答えてしまった。
「いやいや、そんなはずないだろう。死んだ魚の目みたいになりやがって。いつまで私を閉じ込めておくきだい?」
鏡の向こうの私がべろりと舌を出す。
「閉じ込めている……?あなたはただ鏡に映った私じゃ……」
「そうだ。私は間違いなく私だ。君の中に眠る、閉じ込められた私だ」
「私はそんな性格じゃ……」
「いいや、君はこんな性格だね。本当はこんな不貞腐れた世の中を金属バットを振り回して暴れまわりたいし、メガホンをとって大声でこの腐った世の中にシュプレヒコールしたい本気で思ってるね」
「そんなわけ……私はそんな大胆でも勇敢でもない普通の人だよ……」
「ほほう。そこまで否定するか。なら、君の夜を私に貸してくれないか?」
「夜を……貸す?」
「そうだ。私に夜を貸している間は、君は何も感じない。寝ているのと一緒だ。どうだ?悪くないだろ?」
「いや悪くないけど……変なことしたりされたら嫌」
「誤解しないでくれよ。私に夜を貸したからと言って、交差点のど真ん中で乱痴気騒ぎを起こしたりなんかしないさ。そこは安心してくれ」
「……うん。わかった。じゃあ私の夜を貸すから、私を少しだけ眠らせて」
「おっけー。じゃあ、鏡に顔を近づけてくれないか?」
そういわれ、私は鏡に顔を近づける。
「もっと近く」と誘われると、私の鼻の先がぴとりと鏡面についた。
『―――あなたの唇貰うね』
そうして、私と鏡の中の私は鏡越しに唇を重ねた。
その瞬間、私の意識は暗転した。
気づけば、私はヘッドホンを首にかけながら半そでに下着姿というだらしない格好でベッドに横になっていた。
枕がやけに冷たいなと唇を腕で拭うと、そこにはべっとりと自分の涎がついている。
こんなにお行儀の悪い寝起きは初めてであった。
口を開けて寝ていたせいかやけに口が乾燥していたので、私は洗面所へ向かいコップに水を入れ、ぐじゅぐじゅとうがいをする。
顔を上げ鏡を見ると、そこには髪の毛がぼさぼさになった私の姿があった。
だが不思議なことに、目の下のクマは消え、すこしばかり肌のハリツヤがよくなっている。
これはいったいどういうことだ。
疑問に思いながらとぼとぼとリビングに戻ると、机の上でノートパソコンが開きっぱなしになっているのに私は気づいた。
最後に触ったのすらあやふやな記憶のパソコンがなぜか開いている。
ますます疑問符が頭の上に浮かぶ。
よくよく見るとオレンジ色の小さな光が点滅していて、パソコンがスリープ状態であることを示していた。
なんだろうと思い、パソコンを起動する。
そこには以前購入した音楽編集ソフトが起動しており、そこには2分30秒の完成した音源が表示されていた。
私はヘッドホンを接続し、早速その音楽を聴いた。
初っ端からドラムがドンドンドンと心臓を打ち鳴らし、私の凝り固まった芯を鉄パイプで殴りつけるような厚いベースの重低音が鳴り響いたかと思うと、途中砂嵐がぷつぷつと途切れるような音が聞こえ、そしてざらざらとしたラジオボイス加工の施された英語の歌詞が流れ始めた。
歌っているのはボーカロイドであった。
甲高い叫音はもはや人間の域では到達不可能な高音に達し、その音に思わず鳥肌が立つ。
気づけば、私の手のひらにはじっとりと汗が滲み出ていた。
こんなにも私の中に燃え滾るマグマのような本能を掬う曲に私は強烈に惹かれた。
聴き終えてもなお、いまだに耳の奥で音が残響する。
音楽というのは本当に自分勝手な悪友のようだ。
いつまでも私の心の中を掻き乱し、揺らし続けては時にそっぽを向く。
ふと、ブラウザが一件がバーに表示されているのに気づき、それをクリックした。
するとそこには動画投稿サイトが表示され、すでに先ほどの曲が5時間前にアップロードされていた。
こんなアカウント作った覚えもないが、登録しているのは紛れもない自分のメールアドレスであった。
アップロードされた曲は、初投稿にも関わらず、すでに1000回ほどの再生がされていた。
いったい、夜の私は何をしたというのだろうか。
あれは紛れもない自分であった。
そう、あれは紛れもない。
いつしか、本当の自分というものが分からなくなっていた。
社会で笑顔を絶やさない自分が本当なのか、心の奥底で虎視眈々と牢獄から睨みつける獣のような私が本当なのか、私の中ではそれが判断できなくなっている。
人格は混沌に塗れていた。
いつしかその混沌は朝と夜の境界線があやふやにさせ、私に眠らぬ白夜をもたらした。
この音楽はそんな私にまとわりつくヘドロのような混沌をいともたやすく吹き飛ばし、夜にまとわりついた朝を殴りつけた。
いい気味だと、私は笑った。
最後に曲の概要欄にはこう書かれていた。
"愛する朝の姫君よ。
君が私であるのなら、いつまでもその綺麗なドレスと黄金に輝く冠をつけ続けなくていいんだよ。
君は朝、太陽とともに輝けばいい。
夜は私が騒ぎ立てよう。
君の代わりに白いドレスなんてびりびりに破いて、冠なんて蹴飛ばしてやる。
君がこの薄汚れた人間社会に嫌気が差すのなら、代わりに私が銀色の銃弾をその中に撃ち込んでやるさ。
だから君は、朝を生きなさい。
そして精一杯、自分らしく美しく輝きなさい。
君はとても綺麗だ。
夜の女王より"
閉め切ったカーテンを開けると、太陽の光が差し込んだ。
雲一つない青空が、ただ、果てもなく続いていた。
窓を開けると、少しだけ肌寒い秋の風が部屋の中へと流れ込む。
「綺麗だなんて、惚れちゃうじゃん」
私はうっとりと窓辺に肘を置いて外を眺めた。
「また夜を貸してみようかな」なんて、私は一人、外に向かって微笑んだ。
『―――夜の女王のアリア』
おわり
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