【短編小説】たとえばそれが、透き通った粉雪だったとして。
「ねぇ、雪って本当に真っ白なの?」
莉花は空いた窓に顔を向けながら呟いた。
「そうだよ。すごく真っ白さ」
春樹は彼女のベッドの横の丸椅子に座りながら優しく答えた。
開いた窓には一本の大樹が見え、その枝葉は焦げ茶に色を染めていて、冷たい北風が吹くたびにカサカサと揺れては、一枚、また一枚と枯れ葉をひらひらと散らしていった。
風が病室へと舞い込むと、莉花は深く息を吸い、「あぁ、もう冬の匂いがするね」とにこりと笑った。
春樹は「冬の匂いっていうのはいったいどんな匂いなんだい?」と莉花へ問いかける。
すると莉花は「そーだなー。温かい土の香りと澄んだ風の香りが混ざった匂いかな!」と答えたが、春樹にとってはますます分からないものとなってしまい、「それはすごくいい匂いなんだね」と、彼女の頭を優しく撫でた。
「少しだけ待っててね莉花ちゃん」
春樹はそういうと、椅子から立ち上がり、病室を出た。
病室を出る直前、彼女が窓の外にじっと顔を向けているのを見て、春樹は顔を俯かせてため息をついた。
春樹はそのまま特別待合室へと向かい、そこの扉を開ける。
そこには椅子に座った白髪がところどころ混じり合った夫婦が、青い顔をして座っていた。
「先生……莉花の容態はどうなんでしょうか?」
春樹は奥歯に力を入れ、感情を噛み殺しながら口を開く。
「正直なところ……もって3ケ月といったところです」
夫婦はたまらずその言葉に涙を流し、嗚咽を漏らした。
奥さんのほうはあまりのショックに過呼吸気味になり、その様子を見た夫が背中をさすりながら、「大丈夫だ大丈夫だ」と泣きながら呟いた。
神様はなんて非情なんだと春樹は天井を見上げた。
小さな部屋にすすり泣く声が春樹の耳の中に木霊するたびに、彼は湧き上がる葛藤を抑えつけた。
こんなことなら医者になんてならなきゃよかった。
そう思えるほどに、自分は肩書だけの人間なのだと、手の平に滲む汗が自分の無力さを諦念させた。
◆
春樹は医者になるべくしてなったのではなかった。
生まれ育った家族がたまたま医者の家系だったからという理由だけで、私は医学部へと進学した。
幸いなことに、春樹は勉強は出来たほうであった。
特に、人体という謎多き迷宮は春樹の好奇心をくすぐり、医学の勉強はまったくもって苦痛ではなかった。
だが医学の勉強が好きなことと、医者になりたいということがイコールになるわけではない。
目の前の専門書だけを見つめていた私にとって、何かやりたい夢があったわけでも、何遂げたいこともなかったために、いつの間にか選択肢が否応もなく医者になるという一本道になってしまった。
そして研修医課程も修了し、晴れて医者となってからは、父が院長を務める大学病院に勤めて、気づけば6年という月日が経過していた。
莉花と出会ったのはちょうど6年目を迎えようとする4月のことであった。
神経内科を専門とし、さまざまな患者の相手をしてきたが、その子だけは一目見た時から頭からその印象が離れることはなかった。
莉花は盲目であった。
診察室に初めて入室した際は、サングラスをかけていたことが未だに衝撃だったことを春樹は覚えている。
病院内でサングラスをする人など見たことがないものだから、春樹は思わず「なんでサングラスをしているんですか?」と聞いてしまった。
その時「しまった」と焦りが背中を走ったことも春樹は覚えている。
医者は本来、患者がどんな格好であれ、その人個人を尊重しなければならないため、普通であればそんな失礼なことを聞いてしまってはいけないのだが、彼女はふふふと笑い「お洒落に決まってるじゃない」と笑って答えた。
春樹は動揺するあまり、その答えへの返答が見つからず、「いいですね、似合ってますよ」とぎこちなく答えた。
お洒落だと言ったサングラスは、自分の盲目を隠すためだと知ったのは、それからずいぶんと後のことであった。
莉花がここに来た理由は当初「足の付け根が痛い」というものであった。
春樹は莉花が診察を受ける前に、かかりつけ医の整形外科から紹介状を受け取っており、「原因不明のため、詳細検査をお願いします」という文面が添付されていた。
私はすぐさま莉花に血液検査を行い、すぐさま病理へ回したところ、彼女の血液中の白血球が癌化していることが判明し、すぐさま入院することとなった。
若年性での癌というのは非常に珍しいが、またそれも厄介なことで、瞬く間に癌の進行は進み、ついには抗がん剤治療を行うこととなった。
抗がん剤治療は非常に強い痛みを伴い、まだ15歳である莉花の体にとっては耐え難い苦痛であった。
さらには莉花の両親も決して裕福な家庭というわけでもなく、高額な抗がん剤治療を受け続けるには非常に困難を強いられていた。
そんな地獄ともいえる時間が刻一刻と過ぎていき、ついに夫婦のお金も底をつき、莉花の体もとても抗がん剤治療に耐えられる体ではなくなってしまったために、中断を余儀なくされることとなった。
それは、ちょうど木枯らしが冷え込む11月の出来事であった。
莉花は間もなく、緩和ケア病棟に移され、今は広く綺麗な個室に移されている。
緩和ケア病棟は最上階に位置し、ここからの景色というのは雄大で、眺めの良いものであった。
すでに緩和ケアについては春樹の担当ではないのに、時間を見つけては莉花のいる病室を何度も訪れていた。
春樹にとって患者の一人というだけであるのに、莉花にはどこか惹きつけられるような、そんなミステリアスな魅力を持っていて、彼にとっては「ただ一人の患者」と思うことは到底出来なかった。
以前父からは、「医者は時に冷酷でなければならない。そうでないと身が持たないぞ」と言われたこともあるが、現に仕事中も春樹は莉花のことが脳裏をかすめ、どうも集中力が途切れてしまうことが頻発していた。
このままではいけないと春樹は頭を抱え、無理して我慢することもないんだと開き直ると、時間が空いた時は極力会いに行こうと決心した。
春樹にとっては「ただ一人の患者」であっても、莉花にとっては「たった一人の先生」なのだ。
彼女の命の灯が揺らめいているのにも関わらず、何もしないなんてことは春樹にとって耐え難い苦痛であって、それを耐えるぐらいであれば会ってきちんと話をしたほうがいい。
それからというもの、春樹は何度も何度も彼女の病室を通った。
「本当、毎日毎日飽きないね。先生ぐらいだよ?こんなに私のこと好いてくれてるのって。ほんと物好きよね」
春樹は年端もいかない少女に達観され、思わず驚き、可愛げを覚えた。
「僕は物好きでいいよ別に。でも莉花ちゃん可愛いから友達とかもいっぱいいるんじゃないの?」
そういうと莉花は少しだけ黙った。
「私ね……友達っていうのがわからないの。友達っていうのはあれでしょ?お互いに支えあって心を深めていく仲のことを言うんでしょ?私なんて誰かの支えなしじゃ生きていけないし、誰かを支えることなんて到底できないから、私にとって周りにいる人は友達じゃないの」
その言葉に、春樹は思わず反論する。
「そうか?僕は莉花のことを友達だと思っているよ。こんなにもお洒落で、話が面白くて、飽きない魅力をもった女の子なんてそういるもんじゃないよ。世の中の女の子ってみんな口をそろえて彼氏の話しかしないからこっちは困っちゃうもんだよ。そういう意味では、面白い話で僕に元気をくれているわけだし、支えあってるんじゃない?」
そういうと春樹はにっこりと笑った。
彼女は開けた窓の外を見ながら、「本当、褒めるのが上手ね」と春樹にそっぽを向いてぼそりと呟いた。
その声は少し震えていたことに、春樹は気づいていた。
◆
「メリー、クリスマス!」
病院内では、12月24日になると必ずクリスマス会を行う。
それといって何か大きなイベントをするとか、出し物をするわけではないのだが、いつもは無機質な病院内を明るく装飾が施される。
緩和ケア病棟も例外ではなく、12月24日だけはシャンシャンと鈴の音がなり、食事のデザートにはケーキが用意されていた。
春樹は今日も仕事がひと段落つくと、すぐさま莉花のもとへと向かった。
扉を開けると、部屋の明かりはついていて、莉花は静かにラジオを聞いていた。
「あ、先生」
莉花は春樹が病室の扉を開けたのに気付くと、イヤホンを外した。
「今日の体調はどうだい?」
春樹はそっと、莉花の手を握った。
「うーん……まぁまぁかな」
莉花はため息交じりに元気なく答える。
そして枕にもたれながら、暗くなった夜空の遠くを見つめていた。
「ねぇ、先生」
「ん?どうした?」
「今日、雪が降るんだって」
「え、そうなの?」
「天気予報見てなかったの?」
「ごめん、朝は慌てて見れてないんだ」
「本当、おっちょこちょいのお馬鹿さんね」
彼女はそういうと、浅くなった呼吸を戻すように、深呼吸をする。
「ねぇ、前にさ、"雪って真っ白なの?"って私が先生に聞いたことあるの覚えてる?」
「あぁ、うん。覚えてるよ」
「私ね、雪見に行きたいんだ。これから外出できない?」
「んー……。ちょっと待っててね」
そういうと春樹は病室を出て、すぐさま緩和ケア病棟の責任者でもある石成先生の元へと向かった。
石成先生に事情を説明すると、すぐさま承諾をもらえたが、患者の体のことも考えて30分程度にしておきなさいと指示を受け、ジャケットや毛布などは看護師から借りてくれと言われた。
春樹は石成先生にお礼を言うと、看護師からジャケットと毛布を借り、莉花の病室へと向かった。
「大丈夫だってさ。外に出てみよっか」
「え、本当!やった!」
春樹は久しぶりに喜ぶ莉花の顔を見え、嬉しさを覚えた。
彼女の体はすでに自分を支えるだけの筋力がすべて落ち切ってしまっていたため、車いすの移動となる。
春樹は莉花に温かなジャケットを着せて温かいひざ掛けを乗せると、そのままゆっくりと外へと向かった。
1階に降り立ち、病院の裏口から外へ出ると、冷たい風が身を切るように吹き込んできた。
春樹は思わずその寒さに耐えられず、「ちょっと待ってて」とすぐさま自販機へと向かった。
そして温かなココアを2本買うと、その一本を莉花へと渡した。
2人で「寒いね」と言いながら笑いあう。
すると莉花は鼻をくんくんと動かし、「雪の匂いがする」と空を見て呟いた。
するとちらほらと白い雪の結晶が落ちてきて、春樹の手の平に乗っかったと思うと、体温ですぐさま水に溶けていった。
上を見上げると、白い雪の結晶は塊となって、まるで雲を小さくちぎったかのような柔らかな丸を描いて、あたり一面に降り注いだ。
「莉花、雪が見えるかい?」
「うん、見えるよ」
莉花は手のひらに落ちた雪を盲目の目で見つめ、そして涙を流した。
「本当、真っ白で、すぐ溶けちゃうんだね雪って。本当、もうなんだろう」
莉花は行き詰まり、そして大声で泣いた。
春樹は莉花がこんなにも泣きじゃくる姿を初めて見た。
きっと、このあまりにも華奢で小さな体の中に、親への罪悪感や自分は何者にもなれないまま死んでいく絶望感をため込んでいたのだろう。
それが雪の儚さと相まって、梨花の感情を制御するレバーは、すでに歯止めが効かないほどに壊れてしまった。
春樹は無意識に車いすに座ったままの莉花を抱きしめた。
今にも折れてしまいそうなその体は、いつも以上に春樹にとって愛おしく感じた。
「ごめんな、ごめんな」
春樹はしきりに莉花に謝った。
自分がなんで謝っているのかはよくわからない。
春樹は自分が神でないことも知っているし、自分が無力であることも知っている。
それでも莉花を助けられないことが悔しくてたまらなかった。
雪は次第に強くなり、あたりを白く染めていく。
そろそろ戻ろうかと春樹は莉花へいうと、彼女は「最後に一つだけ」とお願いをした。
「私ね。一つだけしたいことがあるの」
「なんだい?」
そして莉花は少しだけだまり、恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「キス……したことないんだ。キスってどんな味がするの?」
春樹はその言葉に思わず心臓を握られた。
そして自分の鼓動が早まり、感情が高ぶっていくのを感じた。
「莉花……こっちに顔向けて」
春樹は後ろから前に回り、莉花の真正面に顔を近づける。
そして、ゆっくりと、優しく唇を重ねた。
その熱は雪をじんわりと溶かしていく。
それは永遠とも思えるほどに、春樹と莉花の愛が込められたキスであった。
「キスってココア味なのね」
莉花は優しく笑った。
「そうだよ。知らなかった?」
春樹はおどけて笑う。
「うん。知らなかった。だからもう一回して?」
莉花は恥ずかしく、キスをせがむ。
春樹はそしてもう一度、莉花に唇を重ねた。
深々と降る雪は、その二人を純白のベールを被せているようにも見えた。
◆
「12月30日 午前4時2分 ご臨終です」
その連絡は私のスマホを震わせた。
だが、私は真っ先に病室へ向かうことが出来なかった。
そこにはすでに莉花の両親がいるのだ。
そこに担当医でもないただの医者が向かっても、迷惑なだけであった。
私は冷たくなった部屋で一人泣いた。
そして人差し指で自分の唇をなぞった。
まだ、莉花が生きているように思えた。
あの唇の感触が忘れることが出来ない。
「ありがとう。愛してるよ」
春樹は虚空に向かって呟く。
ただ泣くことしかできない春樹は、莉花の死を静かに悼むことしか出来なかった。