静 霧一 『空の舞姫』
「―――痛っ!」
私は挫いた足首に顔を歪ませる。
左足を使って恐る恐る床に座ると、私はテーピングで固定された細い足首を擦った。
骨の奥を走る神経が、じんじんと鈍痛を発し、無言で私の心を殴りつける。
「危ないから、今日は隅で休んでいなさい」
先生が私の背中をさすりながら優しく呼びかける。
私はその優しい声に、自分の声を殺して涙を流した。
バレエ教室の隅、鏡と壁の境界線に私は座り込む。
一度中断されたバレエレッスンが始まり、いつも通りの練習が再開した。
もうバレエを始めて二十年近くが経過している。
見慣れたレッスン教室のはずが、部屋の隅から見るその風景は、私だけが切り取られた風景に見えて仕方なかった。
私よりも十歳も二十歳も若い女性たちが、音楽に合わせ、アレグロを踏む。
軽快なステップに、少しだけ床が震えた。
昔は失敗なんてしても痛みを感じることなんてなかった。
歳を重ねるごとに、一度の失敗が癖となり、何度も何度も同じところを痛みつける。
慣れたはずの痛みがこんなにも辛いのは、きっと私の中に「こうあるべきだ」という理想が常に掲げているからなのだと、理解していた。
そのギャップが年々広がっていくことに、私は溜息をついた。
「はーい、じゃあ10分休憩ね」
先生が手を叩くと、汗をかいた生徒たちが散り散りとなって、水分を取り始めた。
私の荷物の中にも水があるのだが、今それに手を伸ばすことが出来ない。
私の中で際限なく湧きあがる渇きを私は必死に抑え付けた。
「神木さん。今日は無理をしないで帰りなさい?」
先生はそっと私に寄り添う。
私は声を出さずに頷き、教室を後にした。
◆
ベッドにごろんと寝転がった私は、見慣れた白い天井を見つめた。
天井には、何度も私が足を挫いたシーンが何度も再生され、私は深く布団を被った。
「好きなことで生きていく」
そんなメッセージが歌われるたびに私は耳を塞いだ。
好きなことを好きだと言えたらどれだけ救われるだろうか。
それを口にしようとするたびに、どうしても唇が震えてしまう。
あんなにも踊ることが好きで、豊かな表情を浮かべていた私も、いつしか、悔しいことを堪えるばかりで、歯の奥をかみしめることが多くなっていた。
私がバレエを始めたのは母の勧めからであった。
引っ込み思案で、家にいるだけの私に、母は知り合いの同い年の娘が通っているバレエ教室へと私を連れて行った。
まだ幼かった私は、バレエというものが何なのかをはっきりと分かっていなかったが、曲に合わせながら踊る先生の姿を見て、美しいと思ったのがきっかけであった。
引っ込み思案な性格は今でも直ってはいないが、私はバレエで自らの肉体を使って全身全霊で表現をすることの楽しさを知った。
でも今ではどうだろうか。
好きなものを好きというのが怖いし、震えてしまう。
私は布団の中の小さな世界に自分を閉じこもった。
手を伸ばせば伸ばすほど、自分の理想が遠ざかっていく。
そのくせ、救われたいと願いながらも、差し伸べられた手を振り払ってしまう私は、子供のように天邪鬼であった。
好きなことがこんなにも苦しいのなら辞めてしまえばいいじゃないかと、その天邪鬼が耳元で囁く。
「それが出来ないから苦しいんじゃないか……」
私は布団の中で、一人虚しく泣いた。
疲れ果てた体は、いつの間にかその瞼を閉じていた。
◆
気づけば、私は霧の中を彷徨っていた。
前が見えないほどの霧である。
どこへ行けばいいのと、私は裸足のまま、霧の中を駆け走った。
ふと、淡く黄色い光が遠くに見え、私はその光に向かって急いで走った。
その光は一本の黒い街灯が灯している光であった。
そしてその街灯の下には、背丈が私よりも頭一つ分高い人影が、街灯にもたれかかっていた。
「どうしたんだい?そんなに急いで」
人影が私に尋ねた。
どうやらその人は男の人であった。
「あ、いや、あの……霧の中で迷っちゃって」
私は弱弱しく口を開いた。
その男の人に私は見覚えがあった。
顔を覗き込もうとしたが、どうもその男の人の輪郭がぼやけ、はっきりと確認することが出来ない。
だが、不思議とその声に安心した。
「そうか。だが、ここに出口はないぞ?」
男は静かに答える。
「出口が……ない?」
「あぁ、そうだとも。入り口はあっても出口はない。それがこの霧の中なのさ」
男の言う意味が理解できなかった。
そもそもいつ私がこの霧に迷い込んだのかさえ分からない。
肺に冷えた空気が流れ込み、私は少しづつ落ち着きを取り戻していった。
「だけども、ここから出る方法が一つだけある」
男が人差し指を立てる。
「出る方法?」
私は首を傾げた。
「そうさ。ここに出口はないが、出口を作ることは出来る。それがここを出る唯一の手段だ」
男は笑いながら答えた。
出口を作る?いったいどうやって。
男の馬鹿げた回答に、少しだけ怒りを感じたが、あたりを見渡しでも霧しかなく、今頼れるのはこの目の前にいる男のみであった。
「どうやら、君の足では難しいようだね。怪我をしているじゃないか」
男の言葉に、私はふと足元に視線を下げた。
そこには血豆がところどこにに出来、テーピングを何重にも巻いた私の足があった。
「これは……!その……」
「その足ではこの霧の中を出られないよ」
男はため息をついた。
「怪我ならすぐ治ります!だからここの出口を教えてください!」
私は必死になって男に縋り付いた。
縋り付くたびに、ずきんと足に痛みが走る。
男は私が痛みに歪んだ表情を浮かべているのに気が付いたのか、こちらに来なさいと、肩に腕を回し、自分の体を松葉づえ代わりした。
そしてゆっくりと歩いていくと、また先ほどと同じ街灯の光が現れ、その下にある木製のベンチに私たちは腰を下ろした。
「話してごらん」
男はただ一言、私に尋ねた。
私は唇を震わせながらも、言葉の一つ一つを紡いでいく。
「好きなことを続けるのは……こんなにも苦しいことなのでしょうか」
私はぐっと拳を握った。
なぜ、こんなことをこの男の人の前で吐露をしたのかわからない。
だが、今言わなければ、私は一生、それを自分の中に閉じ込めてしまう気がしていた。
「神木さん、君はどうしてそんなに苦しくても続けているんだい?」
男は優しく問いかける。
「だって、私……バレエが好きなんです。自分の体の奥から指の先まですべてを使って"私"を表現できることが本当に嬉しいんです。私からバレエを取ったら、きっと私自身が消えていってしまいそうですごく怖いんです。だから、思うように足が痛くて動かなくても、指先がひどく凍ってしまっても、私はどうしても踊り続けたいんです」
私の目から涙がこぼれた。
ぽとりぽとりと落ちるその涙が、私の手の甲を濡らしていく。
涙が一粒こぼれるたびに、私が大切にしてきた想い出たちが鮮明に蘇った。
レッスンで初めて友達が出来た日、先生にターンを褒められた日、愛する人に私の表現を凄いと言われた日。
そのどれもがかけがえのないものだ。
きっとそれがあるからこそ、私は今も踊れている。
「君は強い子だね。それなら大丈夫さ。きっと君なら出口を作れる」
男はそっと私の頭を撫でた。
そして男はベンチから立ち上がると、地面に片膝を下ろし、座る私と視線を合わせた。
「私が一つ魔法をかけてあげよう。失敗を恐れない魔法だ」
男は私のボロボロになった右の足首を撫で、優しい声で呪文を唱えた。
何と言っているのか聞き取ることが出来なかったが、私はその呪文とやらに安心し、だんだんと痛みが取れていくように感じた。
だんだんと目の前の視界がぼやけ、霧が濃くなっていく。
「もう、大丈夫だよ」
耳元で囁かれた言葉が、私が霧の中で最後に聞いた言葉であった。
◆
時刻は夜中の4時を指していた。
お風呂に入らずに寝てしまったせいか、髪が固まりごわごわとしている。
私は浴室の電気を付け、軽く湯船をシャワーで流し、栓を閉めると、給湯のスイッチを押した。
その間、私は台所の床に体育座りをしながら、作りたての白湯をちびちびと飲んでいた。
ほどなくして、お風呂が焚けると、急ぎ足で浴室に行き、服を洗濯かごに投げ入れ、シャワーのノズルを捻った。
温かなお湯が頭の先から流れ落ち、私にへばりついた疲れを、排水溝へと流していく。
泡が渦となって、消えていく様子を私はじっと見つめた。
足の指先からゆっくりと湯船につかる。
湯気が私を優しく包み込むと、頭の中の思考がゆっくりと溶けていき、ふわふわとした感覚にさせた。
先ほどの霧の中の人は一体誰なんだろうか。
聞いたことのある声、ざらりとした指先、寄り添うような優しさ。
どこかで私はあの人と会っている。
だが、いくら思い返してみても、それが私には誰だか分らなかった。
十分に体が温まったところで、私は湯船から出た。
気づけば、すでに時刻は朝の5時である。
ふと、私は足の痛みが消えていることに気付いた。
出来ていたはずの血豆も綺麗に無くなっている。
そんな魔法みたいなことがあるのだろうか。
私は首を傾げながら、部屋着に着替えて、髪を乾かした。
一通りのことが終わり、私はリビングに戻るとテレビをつけた。
ちょうど、朝一番のニュースがやっており、難しい外交問題や交通事故の映像を流している。
私はその映像を聞き流しながら、台所へと向かった。
どうもこの時間はお腹が減る。
だけれども体重管理をしているせいか、この時間にご飯を食べるわけにはいかないと、コンロ下の棚からミックスナッツを取り出し、それを口の中へと放り込んだ。
ニュースが今日の天気予報を流し始める。
今日の日の出は6:30であり、天気は快晴であることを知らせていた。
日の出だなんて、もう何年も見ていない。
カーテンを開けると、まだ空は真っ黒な夜に覆われ、点々と星が輝いている。
この夜空が美しく焼ける景色など滅多に見れるものではない。
私は部屋着の上にセーターとジャケットを羽織り、家の外へと飛び出した。
マンションの4階からエレベーターに乗り、1階へと降りる。
駐輪場にある自分の自転車を引き出すと、私は静かな星の瞬く朝を駆けた。
車輪が回るたびに私の呼吸が上がり、息が白くなって冷たい空気に溶けていく。
20分ほど漕いだだろうか。
私は「西宮自然公園」に到着した。
公園の入り口にある駐輪場に自転車を置くと、ゆっくりとした足取りで園内に入った。
この公園はかなり広大な面積を誇り、公園中央には大きな芝生が広がっていて、その周りを桜の木が囲んでいる。
桜の季節には観光客で賑わうが、今は2月である。
桜の木の葉は枯れ落ち、枝の先には、小さな蕾が春の息吹を待っていた。
どこからか烏が鳴き声が響き渡る。
私以外にも朝を待ちわびて居るものがいるということに、なぜだか私の心はほっとした。
時計を見ると、6時20分を表示する。
夜空と世界を隔てる地平線から赤い斜光が伸び、夜の青を割っていく。
私は光が描く幻想的な光景に、思わず息を飲んだ。
一匹の烏が、頭を出した朝日に向かって、羽ばたいていく。
なんて自由なんだろうか。
あぁ、今私は生きている。精一杯に生きている。
頭の中を覆っていた苦悩の霧が徐々に晴れていくのを感じた。
『―――踊りたい』
私の心が途端に熱くなる。
その熱さを逃すように、羽織っていたジャケット、そして履いていた靴も靴下までも芝生の上に脱ぎ捨てた。
朝露で濡れた芝生の上で、私はスワニルダのヴァリエーションを踊る。
ステップを踏んでジャンプするたびに、足の裏に柔らかな土の感触が伝わり、私の口から命の吐息が漏れた。
手の指先から足のつま先まで神経を研ぎ澄まし、全身全霊で自分を表現する。
あぁ、なんて気持ちいいんだ。
自分の体が自然と調和するこの感覚に、私は気持ちよく溺れた。
本当の自分と向き合い、そして共振する。
好きなことと向き合うのは今でも怖い。
それでも、私はそんなかけがえのない自分を抱きしめて、踊っていたいんだ。
気づけば、私の渇きはどこかへと消え去っていた。
『―――出口は自分で作るんだよ』
あの人の声がした。
そっか。こういうことだったんだね。
私は小さく微笑みながら「ありがとう」と呟いた。
◆
美しい朝焼けが映える、絵画のような風景の中にバレリーナが一人。
まるでそれは、空に祈りを捧げる姫君のようであった。
おわり。
◆
あとがき。
私の大切な友人に、長年バレエをやられている人がいます。
非常に優しい人で、背筋が綺麗に伸びた後ろ姿の美しい人です。
私は以前、その人が「自分の名前が好きではない」というのを聞いたことがありました。
それが私の心に引っ掛かり、今でもずっとそれを飲み込めずにいます。
私というたった一人のちっぽな人間は、あなたの名前を美しいと思っています。
そうでなければ、こんなにも綺麗な小説を書くことは出来なかったでしょう。
いつか、名前を呼べるその日まで―――
静 霧一