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静 霧一 『ねむるまち』
乱れたシーツの上で、私は彼の残した煙草を咥え、彼からもらったライターで火を灯した。
テレビ台に置かれた小さな置時計の長針と短針が抱き合いながら、真夜中の12時を知らせる。
彼は、終電に間に合っただろうか。
そんな思ってもいない心配が頭を過った。
もう、なんで彼を好きであるのか思い出せない。
そんな淡い恋情など、とうの昔に燃え尽きてしまった。
彼の言葉にスキップした日々が、今じゃもう泥濘の中を必死になって足踏みしている。
情けない。
机の上に置かれた、少し潰れた缶ビールが目に映る。
きっと、彼の中にある私への好意は、あの缶の底に残った温いビールほどなのかもしれない。
埃を被った換気扇がキュルキュルと音を立てて回り、煙草の鈍い香りを巻き込んでいく。
煙は「儚さ」だけを残して、君の香りと共に消えていった。
◆
「浴衣似合うじゃん」
響也が私の姿を見て笑った。
私は思わずその言葉に、恥じらいを隠せずに、頬を赤く染めた。
私を含めた複数人の男女がいる中で、私だけを見てくれている。
がやがやとした夏祭りの雑踏の中、彼の声だけが私に響く。
響也が私の汗で滲んだ手を優しく握る。
その温かさに火照った私は、きっとその熱さに酔ってしまった。
「ねぇ、抜け出しちゃおうよ」
彼の手が、私を夜の夢へと誘う。
その晩、私は愛に乱れた。
あの夏の一夜の迷いが、私の足首を沼の中へ引きずり込んだ。
通じた体がやがてお互いを引き寄せる。
彼の悦びが、私の快楽だと勘違いする私は馬鹿だ。
それはまるで、一時の至福に溺れる、一本の煙草の煙のようだというのに。
愛の傀儡となった私の心は荒み、やがて、彼の残した煙草に手を伸ばした。
銘柄なんてわからないし、煙草なんて美味しくもない。
それでも私は彼と同じになりたくて、背格好に似つかわないワイルドセブンばかりを吸っていた。
息を吸うたびに、肺に嘘が溜まっていく。
それは哀れな私への線香のように、嫌な匂いを立てて、部屋に溶けていった。
◆
ふと、目線を横に向けると、くまのぬいぐるみが横たわっている。
それは、子供の頃、母親からもらった誕生日プレゼントで、肌身離さず持っていたぬいぐるみであった。
何度手放さそうと思ったけれども、それでも手放せずに、今も共に私と眠っている。
あんなに愛らしかったぬいぐるみも、今じゃ、煙草臭くて嫌になる。
そんな私は、ぬいぐるみを優しく抱きしめた。
「私を眠らせて」
私はぬいぐるみに呟いた。
子供の頃に見せてくれた、幸せな夢をまた見せてほしい。
嫌いになれない、煙草の匂いが香る。
愛が純粋であれば、きっと通じるだなんて、少女漫画のヒロインに私を重ねるなんて、なんて惨めなんだろう。
心の中で、なんども「さよなら、さよなら」と叫んだ。
都合がいい私なんて、どこかに消えてしまえばいい。
でもきっと私にはそんな勇気なんてなくて、ただ唇を噛む事しか私には出来ない。
「こんな私を許して」
疲れ切った私は、夜空の星に願った。
煙草の煙が、白く煌めく星へ橋を架ける。
今日も明日も変わらないのなら、きっとそこに愛はない。
白い天井が動かずに、ただじっとそこにあるのと変わらない。
夢が見れるのなら、私を終着駅へと連れて行ってほしい。
そんな勝手な都合を描きながら、白い錠剤を口の中へと放り込む。
私は煙草の煙に抱かれ、ねむるまちへと旅立った。
人の心は、それが罪だとわかっていても、溺れてしまう。
幼き日に胸の中に抱いた、ほつれたぬいぐるみへの愛着が、手を離れてはくれないように。
おわり。
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