文体を得ること、思索すること 純粋な観察と洞察の到達点
前回の記事で私は「言葉を得ること、文体を得ることが私たちの生き方をすこしだけ救ってくれるのではないかと考えている。」と述べた。同時にとりあげたショーペンハウアーも「文体は精神のもつ顔つきである。」と述べている。文体を得ることは思索することなのか?
文体を持たないお説教について
ショーペンハウアーの『読書について』(斎藤忍随訳/岩波文庫)をとりあげたのも前回であった。あれだけでは不十分の感が拭えないのでちょっと補っておきたい。ショーペンハウアーは同書で必ずしも読書そのものを否定しているのではない。ここはよく誤解されている点だ。
勘違いして「100冊の読書は1日の経験に如かず」というような経営者が出てきたりする。曰く「本ばっかり読んでないで行動しろ! 頭でっかちは仕事では役に立たん!」というわけだ。
まあ、その通りなのだが、こうした手合いを見るとは自分が読書(勉強)してない引け目を感じているんだなと思ったものだ。彼らはまた「学校はなんにも教えてくれん」ともいう。これまたその通りなのだが、やはりどこかしら自己弁護のような独善性が拭えなかった。
どうして彼らの意見に拒否感があったのだろうか?
ひとつには、こうした意見がすでにどこかで言い古され、発言者自身の内奥からの意味が付されていないことがある。ショーペンハウアーがいう文体がないのだ。さらにそのうえに、今でいう“逆張り”の感覚というか、「おれは世間一般の大人たちとは違って、現場で育ったんだぜ」という奇妙な自負が加齢臭を立てているせいだ。通底するのはちゃちな自己承認の欲求だけである。
ショーペンハウアーの『読書について』や『知性について』(細谷貞雄訳/岩波文庫)で論じられるのは、こうした自己承認を目的とした借り物の思想の無意味さであり、それを賢しらに言い募る俗物の愚かさである。
ショーペンハウアーは読むなとは言っていない。読むことに頼るなと言っているだけだ。そうでなければ、知性というものが個々のせせこましい意志に汚染されてしまうからだ。そうした知性は世の中にとって害毒である。
ショーペンハウアーは承認や金銭といった欲求のもとである意志を遠ざけて、思索せよと言っている。誰かが考えたことに頼っているうちはほんとうに思索したとはいえない。道標のない道を行けというのだ。それが前回、私が大胆に要約した「正解などない」いうことの真意だ。
しかし、まあ、私もショーペンハウアーの議論に余計な解釈しているだけで思索しているとも言えず、なんとも皮肉だ。
本を読まない功罪
ショーペンハウアーの哲学は「意志の否定」と言われる。
いちばん最近のショーペンハウアーについての解説本『今を生きる思想 ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜く』(梅田孝太著/講談社現代新書)でも、この点が中心になって論じられる。
ところでこの講談社現代新書は100ページほどの長さしかない。「現代新書100(ハンドレッド)」という新たに始まったシリーズの最初の配本のうちの1冊である。
「現代新書100(ハンドレッド)」とは、以下のようなコンセプトだそうだ。
通常の新書ですら売れ行きが芳しくないなかで、老舗の打開策である。
私もさっそく手にとったのだが、ページ数はおよそ半分でありながら厚みはほぼ変わっていない。編集者としていえば、これは「斤量」と呼ばれる紙の厚みを増やして造本しているからであろう。ページを減らしても価格まで減らせない、出版流通の重い現状が垣間みれる話だ。ショーペンハウアーが鋭く批判した金儲け主義が蔓延する当時のドイツの出版界にも似てなくもない。本は売れないのに、書きたい人はたくさんいる。知性は不足しているのに、意志はたくさんあるとも言い換えられる。読みたくない人が多いのはショーペンハウアーにとって歓迎すべきといえばそうでもない。読みたくない人はさらに“考えたくない病“を悪化させている人たちだからだ。そういう彼らは、他に考えてくれるものを探す。YouTubeの動画や身近な人のアドバイスやすがれるものをひたすらに探す。本を鵜呑みにする害毒と、なんの違いがあろうか。
しかし、人文が廃れゆく時代に読書や知性の意味を鋭く説いた思想家が老舗の打開策の第一弾企画になっている。ああ、まったく皮肉だ。
心は何を汚染するか?
ショーペンハウアーは意志を否定した。ヨーロッパで初めて仏教思想の影響を受け、事実、なんども言及するショーペンハウアーが否定する意志とは、仏教の無我とよく似ている。似ているが、同じようなものとは言い切れない。このあたりは専門家と意見交換してみたいものだ。
では、この意志とはなんであるか。ショーペンハウアーのいう意志は、「欲望」「欲求」と読み替えることで直感的には理解しやすい。何を為すにも人は己の意志から自由になれない。己の意志から自由となって、より普遍性のある思索など常人がなんの修練もなくできるわけもない。それは天才の業である。
意志の問題が現代においても重要なのは、個々の意志が生きにくさの根本にある「欲望」「欲求」の桎梏になっている点は言うまでもないが、私はAIの自己意識の問題との関わりにより関心が向いている。ここの記事でも、何度もAIの自己意識、人間の意識について考えてきた。量子コンピュータによってAIがさらなるイノベーションを遂げたとき、人工の意識や意志、そして心が誕生するのではといった考えも紹介した。
哲学者ダニエル・デネットはこうした問題を古くからとりあげてきた。『心はどこにあるのか』(土屋俊訳/ちくま学芸文庫)でも、機械によって心を生み出せるかを論じている。心、意志、マインドといったものを、人工知能の研究者、生物学者、そして自らの専門である認知科学、哲学の領域から問うていく。結論など出せようはずもないが、この領域での論点が整理されて、問うべき対象が明瞭になってくる感がある。
心の問題は、機械だけでなく動物に対しても同様に哲学的な思考を求める。本書の面白さは動物の心を論じた点にもあることを付記しておこう。
神々を代替する意志
このデネットの議論に大きな影響を与えたのは心理学者であったジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙—意識の誕生と文明の興亡』(柴田裕之訳/紀伊國屋書店)である。これはとてつもない本である。1976年に発表され、日本で翻訳書が刊行されたのはやっと2005年のことである。その間にジェインズは若くして亡くなっている。
『神々の沈黙』のなにがとてつもないのかといえば、それは人類にはそもそも「意識」なんていうものはなく、3000年ほど前になってやっと「意識」は人類のものになったというのだ。
意識なき時代、人類の脳には神々(先祖)の声を聞く機能があり、その声をこそ指針にして人々はまとまり生きてきたという。なんともにわかには信じられない、トンデモ本の理屈に思えるかもしれないが、膨大なデータと知見を根拠に、人間の脳にそもそも備えられた2つの機能について、脳のなかにいかにして神(先祖)の声が居着いたのかを論証していく。
あまりに大胆な仮説だが思い当たるもの、たしかに付合する事実が多くある。しかし、人類の脳からやがて神々(先祖)の声は失われていく。言葉や文字を得たことで、時間を空間としてとらえ、事物を比喩化し、その世界のなかに己の姿を投影することで、意識が生成されていく。それに従って、脳内の神々(先祖)の声はだんだんと遠くなり薄れる。
それに抗うように人々は預言者や霊媒師をトランスさせて神々(先祖)の声を聞こうとする。しかし、声は遠のくばかりだ。神の指示がなくなれば、人々は誰に代わりに考えてもらうのか、何を頼るのか、何によって結束するのか。
権力者は、疑いと恐怖によって神々の恩寵を支配に代える。
神々はいつしか沈黙し、権力者と支配だけが残る。
神の声が遠のいて、その代わりに意識が生まれたからだ。意志によって普遍を駆逐するというショーペンハウアーの議論にも似ている。神という普遍を滅ぼしたのは、人々の凡庸な意志だった。
すこし踏み込めば、思索できないことを知識の摂取(読書)で補おうとする人々の動きも、おそらく神々の声を失って意識に頼るようになった人類に共通の習性なのだろう。
求めるべき内なる神々の声に耳を傾ける。それは芸術家がインスピレーションを求めるがごとく、多くの学者がセレンディピティを求めるかのごとく。自らの意志や意識を放下したときにこそ、インスピレーションもセレンディピティも舞い降りる。そういう例は数限りない。意志や意識はむしろインスピレーションやセレンディピティにとってノイズなのだ。
内なる神々の声のために、ショーペンハウアーは思索せよといい、宗教では坐して瞑想することを求めるのだ。
純粋に自ら示唆するということ
そのように『神々の沈黙』について述べたのは、イタリアの物理学者カルロ・ロヴェッリだ。彼の新刊『カルロ・ロヴェッリの 科学とは何か』(栗原俊秀訳/河出書房新社)でページを割いて言及されている。
この本自体は、古代ギリシャ、ミレトスの哲学者アナクシマンドロスが人類史上初めて私たちの大地つまり地球を宙に浮いた物体として想像しえたことを巡って進む。日本では最新刊だが、著者にとってはデビュー作である。アナクシマンドロスが持ち得た想像力こそ科学の科学たるものだと言う。
アナクシマンドロスはタレスという師匠をもっていたが、師匠の思索を受け継いだわけでなくまったく独自の世界観と哲学に基づいて思索を重ねた。それこそ、参考にすべき先人たちの論文も著作もないなかで、アナクシマンドロスは観察と洞察によって、近代科学を切り開いたガリレオやニュートンと同じ地点にまで到達している。
それは並の天才のなせるものではない。なんとなれば、ガリレオがコペルニクスの地動説を参考にしたように、コペルニクスが古代ギリシャのアリスタルコスの太陽中心説にインスパイアされていたように、はたまたニュートンが自らは「巨人の肩」にのって─つまり先行研究を参考にして─遠くまでを見通したのだと言ったように、多くの天才でさえ純粋に自律した思索をできたわけではないからだ。
ここに、量子力学と相対性理論を統一するという最先端の物理学を研究する、ロヴェッリが驚嘆し賛辞を惜しまないアナクシマンドロスの大天才があるのだ。アナクシマンドロスには読書を通じて他人の頭を使って思考することはもともと不可能であったのだから、どのような思考もショーペンハウアーのいう思索そのものである。
そこまでなら多くの古代ギリシャの哲学者も同じことかもしれない。アナクシマンドロスが真にすごいのは、その思索の到達点が数千年先まで届いていたことにある。そんなことが可能であろうか。現代に生きる私たちが、たとえば1000年後の科学的事実に相当する仮説を想像しうることが可能だろうか。おそらくは1000年後には私たちの現在の科学的な常識のほとんどが覆っているか、無用になっているだろうから、なおのことに到達困難なところまで、観察と洞察だけで思索することができるだろうか。
すくなくともアナクシマンドロスはそうしたことをした。人の思索とはそこまで行けるものなのだ。ショーペンハウアーのいう思索とは本質においては、アナクシマンドロスの観察と洞察に準ずるものだろう。
多量なだけの読書はややもすれば観察と洞察のための目を曇らせるものだ。
さて、観察と洞察の力のない私にできるのは読書によって得たものを自らの貧弱な文体をもってアウトプットすべく思索の入口をウロウロするぐらいしかない。