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音楽産業はイノベーションの実験室

音楽産業の変遷が面白いのは、それがカルチャーの変遷であり、ビジネスの変遷であり、テクノロジーの変遷であるからだ。もちろん、あらゆるコンテンツ産業は同時にこの3つを変革しながら時代を経ていくのだが、音楽は常に他の文化を先導して変化してきた。すくなくとも近代以降はそうだと言える。


複製というテクノロジーがつくった近代

ドイツの文芸評論家だったヴァルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』(川村二郎・高木久雄・高原宏平・野村修訳/佐々木基一編集・解説/晶文社クラシックス)を著したのは1934年である。近代以降に登場した写真や映画というコンテンツが芸術に対する、それまでの人々のあり方を変えたと論じるこの書物で、もっとも有名なタームが「アウラ(オーラ)」だろう。複製技術によって、芸術作品が有していた、今、ここにしかないたった一つのものとしての絶対性であるアウラが奪われたのだ。これによって芸術祭品が内包していた宗教性も失われたという。
写真や映画というテクノロジー登場以前には、誰もがいつでも同じように手にできる芸術作品は存在しなかった。ゆえに、芸術作品の価値は崇高であり絶対であった。宗教性を失った作品が代わりに身に帯びたのが政治性だとして、ベンヤミンはナチスドイツが複製技術によるコンテンツを用いてカリスマ性を捏造したと批判した。カリスマ性の捏造とは、たとえばレニ・リーフェンシュタールの映画を思い出してほしい。
複製技術、つまりテクノロジーがカルチャーを変革し、変革されたカルチャーによって時代が大きく変わる最初期に書かれたこの論考は、未だに参照・引用されることの多い文献である。それは私たちが未だ複製技術に翻弄されつづけているからだろう。
1830〜40年代に持続的なイノベーションによって写真が、1877年にエジソンによってレコードが、1895年にはリュミエール兄弟によって映画が、それぞれの現在の姿の原型として誕生した。音楽、写真、映画。それぞれの変遷を考えると、素晴らしい作品の並ぶカルチャーとしての歴史と、視聴方法の多様化にまつわるビジネスの歴史が、生活の情景とともに想起される。これこそが複製というテクノロジーの特徴を示すものだ。なぜなら複製によって芸術作品はより多くの人々のものになったからだ。大衆の生活とダイレクトに平行して時代を経てきたわけだ。

カルチャーが先か、テクノロジーが先か?

これほどまでに大衆に根付いた芸術である音楽にまつわる書籍の数はそれこそ古今東西、枚挙にいとまがない。楽譜を除いても、アーティストの自伝・評伝はもとより、名盤ガイド、演奏術や録音術などなど多岐にわたる。これが、ジャズ、ロック、クラシックといったジャンルごとにあるのだから、そうとうな量だ。筆者もこうした書籍を多く読んできたし、生涯の記憶に残る本も少なくない。
そんなわけで「音楽」とタイトルにある本はすぐ手にとる。私が『音楽が未来を連れてくる 〜時代を創った音楽ビジネス百年の革新者たち』(榎本幹朗著/DU BOOKS)を見つけたのは、ディスクユニオンというレコードショップの書籍棚である。見れば、同チェーンの出版部門の書籍であった。はじめ、私好みのスタジオの歴史やレーベルの歴史を扱ったそれと思いページをめくると、そこに現れたのはこれまでに読んだことのない、大衆音楽にまつわる濃厚なテクノロジーとビジネス、そしてカルチャーの物語があった。よくあるカルチャー主体の歴史観ではない。そこが重要だ。
はじめにテクノロジーの持続的イノベーションがあり、それがビジネスに破壊的イノベーションを巻き起こす。ビジネスよって浸透したテクノロジーでカルチャーは数世代をかけて変わる。ひとくちにパラダイムシフトに言及する書籍が多いなかで、ここまで本来の意味でパラダイムシフトを理解させてくれる書籍は珍しい。翻訳書籍をあわせても(ということはおそらく海外でも)、こういった書籍は初めてといえるかもしれない。
ある意味で、日本人だからこそ書けたとも言える。なぜならば、直近100年の音楽の(カルチャー、ビジネス、テクノロジーの)変遷を日本企業の影響ぬきにして論じることは不可能だからだ。これがカルチャー史観なら日本に拘らずとも音楽史はすぐに書き上がる。
ことに印象に残るのは、トランジスタラジオ、ウォークマン、CDを生み出したSONYがいかに音楽において重要なプレイヤーであったかということだ。テクノロジーとビジネスのイノベーションがいかほど生活を変えたのかも非常にわかりやすい。
音楽産業ではテクノロジーの変遷を精緻に見ていなければ、カルチャーを生み出すほどのビジネス・イノベーションは起こせないだけでなく、加速する市場から取り残される。そのことを、身をもって示したのもまた日本企業であった。
しかし、この書籍に与えられた感動は、時代を画すほどの活躍をした人々の熱い物語にある。若い読者を鼓舞し、次なるイノベーションへの挑戦を後押ししてくれる。

カルチャーを生みだす者はそのカルチャーの奴隷になる

SONYが音楽ビジネスに起こした破壊的イノベーションを扱った書籍で、もうひとつ印象深い一冊がある。ゼロ年代、日本でもベストセラーになった『イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』(クレイトン・クリステンセン著/伊豆原弓訳/翔泳社)だ。
アメリカの巨大通信企業であるAT&Tが発明していたトランジスタはその時点でイノベーティブではあったけれど、まだ破壊的なインパクトをもつテクノロジーではなかった。これが破壊的なイノベーションとなるのは、SONYがAT&Tからライセンスを買い取り、トランジスタラジオを製造、市場に投入したからだ。それまでのラジオといえば真空管を使った据置型しかなく、高級品としての市場しかなかった。そこへ小型で携帯できるラジオが登場し、顧客を創造し販路をシフトし市場をつくりかえてしまったのだ。
クリステンセンは、この書籍で愚かな大企業が新しい時代についていけず衰退したというそれまでの見方が間違っているとし、むしろ優秀で時代を読むことに長けた経営者と企業こそがジレンマに陥ると主張し、世のビジネスパーソンを驚かせた。真空管の据置型ラジオの製造企業にとっては、顧客のニーズに合致し最大の利益を出しうるものを追求すればするほど、携帯ラジオなどというアイデアは意味のないものになる。
据置型ラジオの製造企業がすでに築き上げたエコシステムにおいて、破壊的イノベーションはある種の災害だ。優秀であればあるほど災害を避けようとする。このようにして敗退する。「適者生存」などとのたまい、変われなかったことを批判的に語る経営者は多いが、変わるためには環境そのものを変える必要がある。環境を変えることはすなわち自己の生命を脅かす。生命を脅かす判断をする経営者は必ずステークホルダーに引きずり下されるだろう。これこそがジレンマの正体だ。リビングで考えるようには組織は変えられないのだ。
既存製品のエコシステムが破壊されて、新製品のエコシステムができ、消費活動を通じて顧客たるユーザーの生活を変え、カルチャーが醸成されていく。クリステンセンの言葉「バリューネットワーク」とは、本稿でいうエコシステムとほぼ同義だ。
エコシステムを構築しカルチャーを変革させたイノベーティブな製品で成長した企業は、自ら生みだしたカルチャーを変えうる力を徐々に失っていく。そのカルチャーから力を得ているのだから当然のロジックである。
むしろ、こうした動きを伴わなければ新しいカルチャーは生まれえないものかもしれない。大衆音楽の十数年の歴史を振り返ってもよく似たことが起きている。カルチャーというものは、いつもカウンターカルチャーとして登場するのが常だからだ。

経済人としてのミュージシャン

音楽産業が他の産業に先んじてパラダイムシフトの洗礼を受ける事象について、『音楽が未来を連れてくる』では「音楽は炭鉱のカナリヤ」と表現していた。つまり真っ先に毒ガスを浴びて警告を発する役ということだ。音楽産業について、これと同じ表現をしているのが『ROCKONOMICS経済はロックに学べ!』(アラン・B・クルーガー著/望月衛訳/ダイヤモンド社)だ。オバマ政権で財務省次官補も務めた経済学者である著者は、経済学の視点でロックを中心とした音楽産業の現状を分析していくこの書籍で、カルチャーとビジネスの変遷を冷酷に眺めてみせる。それは経済人としてのミュージシャンの知られざる状況に多くの分析が割かれているためかもしれない。
とはいえ文面にロックに対する深い、深い愛情が滲みでて温かみもある。思えば『音楽が未来を連れてくる』でも、音楽にまつわるイノベーターのほとんどが、SONYの大賀典雄にしろ、スティーブ・ジョブズにしろ、音楽に対して深い愛情を持っていた。音楽ほど、私たちの生活に密着し多くの人に愛情を注がれるカルチャーもない。私たちは日常生活で、たったの1曲も耳にしない日はないといえるほど音楽に囲まれて生活している。だからこそ、音楽は時代の変化をもっとも早くもっともダイレクトに受ける。
この書籍では企業や消費者ではなくミュージシャンがいかなる経済的変化に晒されているのかを豊富な証言をもとに克明に描いている。よくあるヒットメーカーたちの栄枯盛衰やヒットに恵まれない天才の境遇といったドキュメントでは決して読めない内容だ。ビジネスの破壊的イノベーションに巻き込まれざるを得ない多くのミュージシャンの苦境を経済学の視点で伝えてくれるのは貴重だ。
少し前まで、配信サービスによって変わりつつあった音楽産業をサバイブしようとしたミュージシャンは、音源収益の数倍あるイベント収益で経済を成り立たせていた。それがこのコロナ禍で予期せぬ苦境に晒されている。
音楽が正しく炭鉱のカナリヤだとすれば、彼らの苦境はいずれ私たちの苦境となる未来も考えられる。

音楽産業のイノベーションの機会

経営学者のピーター・ドラッカーがイノベーションの機会を7つに分類し解説した古典が『イノベーションと企業家精神』(上田淳生訳/ダイヤモンド社)である。まず、第一の機会として論じられるのが「予期せぬ成功と失敗を利用する」である。ここまで述べたように音楽産業が先導者であるからこそ、そこには予期せぬ成功と失敗は他の産業に比して多くある。これがよりイノベーションを刺激している。それは、テクノロジーでもビジネスでもカルチャーでも同じだ。こうして時代を加速している。
成功例はもちろんだが、より重要なのは失敗例だ。なぜ、SONYはiPodを生めなかったか。クリステンセンの書籍がiPod登場以降に書かれていれば、必ずテーマになったであろう。イノベーションのジレンマの好例だからだ。
ドラッカーが定義するイノベーションの第二の機会である「ギャップを探す」も、カルチャーに深く根差す音楽産業ゆえに、ことに価値観のギャップが発生しやすいと考えられる。若者を熱狂させるからこそ、前世代との価値観のギャップはすぐに顕在化してしまう。ネットの掲示板でロックなど年寄りの趣味あつかいなのを見ればよくわかる。
ドラッカーの考えに従えば、コロナ禍の苦境も、たとえばYouTubeを利用したライブ配信など新たなイノベーションの機会を醸成している。真っ先に音楽が、ミュージシャンが、それを実践している。
音楽産業はイノベーションの実験室だ。
だからこそ、一リスナーとしてだけでなく、私は音楽に注目しつづける。


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