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お笑い“風”の資本主義

ハライチの岩井勇気という芸人が好きだ。ついでに言っておくと、オードリーの若林正恭やゆにばーすの川瀬名人も好きだ。
とはいえ、それほどのお笑い好きでもない。なんとはなしにテレビかラジオで触れた彼らのキャラクターのクセや、思想とまでいえないかもしれない思考形式のようなものにシンパシーを感じるのだ。
今回はこんなところから始めてみる。


「お笑い風」とはなに?

岩井勇気や若林正恭はエッセイストとしても著作がある。
ことに岩井の『僕の人生には事件が起きない』(新潮社)は、このベストセラーによって再ブレイクといった様相さえある。
それにしてもこのタイトル。アンチクライマックスそのものではないか。
こうした冷めた視点で眺める人の生態や世の中というものに対する率直な違和感は、全体的な空気に馴染まないものだ。あるいは違和感の発する摩擦が程よい場合には笑いにもなろうが、摩擦係数が高くなると世間から敬遠されるような種類だ。
3年ぐらい前だったか、岩井がテレビ東京の深夜番組の企画で披露した自作曲に思わず視野を広げられたことがある。
それはテレビの枠にあるかぎりネタであることは百も承知だ。百も承知のうえで、思考を広げられ、なおのこと、それをこうして書いているのだから、私も総じてメンドくさい男ではある。
件の自作曲で、岩井はこう歌った。

芸能人が笑ってる
ゲラゲラ奇妙に笑ってる
全く面白くないことでバカみたいに笑ってるよ
インスタで話題…どうでもいい
大御所の自慢、聞き飽きた
番宣役者を持ち上げて
芸人たちがそれっぽく、笑いに変えて見せている
そんなもの…お笑いじゃない
お笑い風…俺はそう呼ぶ!

私がひっかかってしまったのは、この“〜風”という部分である。

臭さと俗

禅宗の言葉に「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」というのがある。
続きがあって、「悟りの悟り臭きは上悟りにあらず」となる。
この禅語を私が初めて聞いたのは、そのむかし住み着いていた禅寺での座禅会の提唱(禅宗の説法のこと)であったはず。
とすると、『無門関』(西村恵信訳/岩波文庫)か『臨済録』(入矢義高訳/岩波文庫)かもと思って本棚を漁ってみたが、見つからなかった。
ともあれ味噌くさい味噌は高級ではないというのは、これ見よがしな悟りは本物の悟りじゃないということの比喩だというのはわかるだろう。
もっと身近な例で言い換えてみようか。

仕事できるっぽい人って本当に仕事ができる人じゃない。
忙しいそうにしている人って本当はそれほど忙しくない。

と、こんなところだろうか。
さて、言いたいのはこうだ。岩井がいう“〜風”とはつまり「味噌臭さ」のことに他ならない。岩井自身も相方の澤部佑に対し「芸人ではなくタレント」という趣旨のことを先のエッセイにも書いている。
ネタにマジレスとも思うが、いつでも世の中に求められているのは、“〜風”であったり「味噌臭さ」であったりのほうなのは言うまでもない。

「っぽい」奴には恥はない

芸人もそうだが、本職外の人が書いた文章が好きだ。
特に好みなのは音楽家や美術家のものだ。文章に音楽や色彩が加わるからといえば単純かもしれないが、たしかにそうなのだ。
そのうちのひとり現代美術家の大竹伸朗の『ネオンと絵具箱』(ちくま文庫)というエッセイにも注目すべき記述があったのでちょっと引用してみる。

「っぽく」ないものにはその始まりから強度がある。しかし地味目であまりウケない。ウケた奴がのし上がる、これはいつの時代も変わらない。「のし上がる」心根には照れがない。「っぽい」奴には恥はない。

『ネオンと絵具箱』

どうだろう? 見事に、岩井の“〜風”と禅語の「味噌臭さ」と響きあっていないだろうか。
同じことを言っているようだ。
テレビで人気者になったり美術界でのし上がったりするのは、才能などとは別の力学が働く。
いつの世も受け入れらやすいのは本物よりも本物っぽいもの。高級よりも俗情に則したものなのだ。

商品の価値は記号で決まる

資本主義の市場では本質よりもイメージが重要になることは少し気の利いた大学生ぐらいなら誰でもいうだろう。
マーケティングやらブランディングやらも、この点が重要視される。
今から半世紀前にそのことを論じ大きな影響を残したのが、ジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』(今村仁司、塚原史訳/紀伊國屋書店)である。
ものすごく要約していえば、資本主義のような大量消費の世の中では、商品の価値はその商品の持つイメージで決まるという内容だ。
どんなに手間暇かかった商品だろうと、どんなに機能に優れた商品だろうと、イメージが悪ければ見向きもされないのが私たちの社会なのだ。どんなに芸が優れていても一度でも不倫したら芸人としての価値は大幅に下落するのをみても端的だ。
イメージこそが大事なのだ。
そう。
“〜風”とか、「っぽい」とか、「味噌臭さ」とか、そういうものが商品の価値そのものになっているのだ。
ボードリヤールはそれを「記号」と定義した。
記号の取り扱いが消費活動の中核部分ということだ。
テレビで求められるのは視聴者の大多数が間違えないレベルの記号であり、芸術で求められるのは才能があるっぽい感じを競う多数決で負けない作品(≠本物)のことだ。ケインズのいう「美人投票」を思い出したが今回のテーマでは紙幅がない。諦めよう。
今や、世界全体がこんな記号を買い漁る消費の方法で覆い尽くされている。
“〜風”も、「っぽい」も、「味噌臭さ」も消費社会では正義である。だって、そのほうが売れるのだから。

逃れられない「っぽさ」の罠

しかし、だ。そんな正義もそろそろ終わろうとしているのかもしれない。
そう思わせてくれたのは昨年、ずいぶんと話題になり著者を一躍有名にした『人新世の「資本論」 』(斎藤幸平著/集英社新書)を読んだからだ。
著者はマルクスの読み直しを通して、現代社会の幻影(そうだ、記号だ!)を破って見せた。
エコロジーがいわれるようになって、世界中の優良といわれる企業がCSR(社会的責任)活動、近年ではSDG’s(持続可能な開発目標)に熱心に取り組んでいる。
しかし、それは先進国の消費社会のツケを周辺国に押し付けているだけだと斉藤はデータで示しながら説得力を持って語る。
斉藤の論に倣えば、CSRもSDG’sも体のいい新型の記号にすぎない。
斉藤はマルクスの名言を模して「SDG’sはアヘンである」とまで言い切る。
私が昨年、もっとも衝撃を受けた一冊でもある。ただ、どういうわけか、こういう事実はどこかで知っていたような気になった。
それは知っていながら知らないふりをしていたということでもあるだろう。こんな野放図な消費がいつまでも続けられるはずがないと肌で感じているからだ。
斉藤が私たちの生活に起こした摩擦は行儀良く受け止めるのは難しいものである。
頭をぶん殴られたような衝撃さえあるし、できれば知らないままにしておきたかった気持ちさえある。
それなのに(いや「それだからこそ」か)、この新書は売れている。
それは、ヨーロッパ帰りの新進気鋭の思想家による現代社会批判という「っぽさ」が受けているからではないか。
そうだとしたら、なんという皮肉だろう。
「っぽく」ないはずのものまで「っぽさ」の記号で覆われてしまっているようだ。
嗚呼、救いのない結論になってしまった。
テレビでも観よう(笑)


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