歴史の終わりとウクライナ侵攻 シミュラークルとしてのメタバース
これを書いている2022年2月24日現在、ロシア軍がウクライナへの侵攻を開始している。出てくる地名は前回記事で論じた 『ワーニャ伯父さん』の台詞にあるハリコフであり、エイゼンシュテインの映画史的名作「戦艦ポチョムキン」の舞台となるオデッサだ。私が想像のなかでのみで知る彼の地に戦火が迫っている。
四半世紀前に生まれた「仮想空間」のコンセプト
「メタバース」が世間を賑わしている。2021年10月、フェイスブックが社名を「Meta」と変更したことで一気にビジネスパーソンの注目を浴びた。メタバースとは「仮想空間」を指すわけで、ビデオゲームの時空を想像すれば大きく間違いはないだろう。そこは非日常ではあるが、しかし、かつてのゲーム世界のような暴力や戦争や魔術を伴う冒険を求めるのではなく、オルタナティブな日常に没入することを目的にするユーザーが増えている。
「メタバース」なるタームは「アバター」なるタームと出自を同じくする。これらのターム、コンセプトを考えたのはSF作家であるニール・スティーヴンスンだ。『スノウクラッシュ』上・下(日暮雅通訳/アスキー出版局)は90年代の終わりに翻訳刊行され、SF好きに歓迎された。
私はロッキンオン社の雑誌「Cut」の書評で山形浩生氏が紹介していることで知り、蒸し暑い夏のアパートで夢中で読んだのを憶えている。ヒロ・プロタゴニストという東アジアと縁のある(日本人ではない)主人公が仮想空間でアバターを使って活躍するという内容は、その以前から主流となっていたサイバーパンクのジャンルに入るものだろう。当時、テクノロジーといえば日本であり、たとえばウィリアム・ギブスンの名作SF『ニューロマンサー』(黒丸尚訳/ハヤカワ文庫SF)の舞台は千葉であったりと、近未来のイメージを刺激していた。同時代の「ブレードランナー」や「AKIRA」ともモチーフを共有している。第2次AIブームの最中でもあり、脳神経学への関心の高まりや日本の「第5世代コンピュータ」プロジェクトへの世界的注目が、サイバーパンクのイマジネーションの大きな源になっていたようだ。
私が、「メタバース」と聞いて、どこか懐かしさのような気持ちを抱くのはまだまだ世界的にプレゼンスをもっていた国産テクノロジーへの郷愁を刺激されるためだろうか。
「大きな物語」とはメタ物語
『ニューロマンサー』刊行から『スノウクラッシュ』刊行の間には大きな世界的な事件があった。ソビエト連邦の崩壊である。アメリカの政治学者であるフランシス・フクヤマは『歴史の終わり』上・下(渡部昇一訳/三笠書房)を著し、国際社会で長らく対立してきた社会主義と資本主義が決着し、資本主義自由経済が勝利したことで社会体制が変革しなくなる、つまり歴史が終焉すると論じた。この議論には当時からすでに賛否両論あり、またその後の世界をみても資本主義自由経済のみが勝利したとは言い難い。もちろん資本主義自由経済が極度に進化したのが現代社会の最も代表的な姿であることを否定しはしないが、それをもって歴史が終わるとは考えられない。
歴史の終わりとはそもそもフランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが『ポスト・モダンの条件—知・社会・言語ゲーム』(小林康夫訳/水声社)において提唱した考え方だ。近代社会を象ってきた自然科学が依拠した哲学やイデオロギーを「大きな物語」とし、そうした時代を「モダン」と呼んだ。そしてそれに続く時代、この哲学という根拠を見失った時代を「ポストモダン」とした。
この哲学やイデオロギー対立の一方であった社会主義がソビエト連邦崩壊によって後ろ盾を失い、つまり国家間の興亡そのものがフラットになり歴史は終わるとフクヤマは述べた。歴史の終わりとは、それまでの人々が準拠し是非善悪の根拠となっていた「大きな物語」が終焉したのと同意と扱われる。リオタールはこの「大きな物語」を上位(=メタ)の物語としている。
フクヤマ、そしてリオタールの歴史観のもとになっているのは、ロシア出身のフランス人思想家、アレクサンドル・コジェーヴが行ったヘーゲル研究だ。コジェーヴの講義には、ラカン、バタイユ、メルロ=ポンティなど後のフランス現代思想を世界的な潮流にまで押し上げた錚々たる名前が並んでいる。ある意味、第二次世界大戦後の社会をポストモダンとしていったすべての契機がこの講義にあったといえるのではないだろうか。
絶対が相対に代わり、因果が相関に代わった時代
コジェーヴは『ヘーゲル読解入門—「精神現象学」を読む』(上妻精、今野雅方訳/国文社)のなかで日本的なスノビズムに言及している。それを歴史が終わった先に残される、生きる根拠として示したのだ。それに対置されるのが、アメリカ的な欲望に根差す生き方だ。生理的、動物的な欲求ではなく、トリビアルな規律と美意識に支配された日本的な欲望としてのスノビズム。コジェーヴが茶道や能のなかに見出したものがそれだった。
そして「アメリカ的な動物化」と「日本的なスノビズム」の先に現れるポストモダン社会の想像力を論じたのが東浩紀の『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(講談社現代新書)である。すでに大文字の“愛”や“正義”の絶対性を無批判にも無反省にも、あるいは照れなしに、物語に取り込めなくなった想像力を補うものを日本のオタク文化から探りだす。それが「データベース消費」というあり方である。物語(ストーリー)ではなく、データベースの組み合わせによって欲求を満たそうとする。「データベース的動物」、ポストモダンの動物化とはそれを指す。
私たちは大きな物語を失い、なけなしの小さな物語を組み合わせ、心を満たす拠り所としようとしていた。もはや戦うべき権力者もなく、挑戦すべき頂もなく、死を賭けてまで愛する相手もいない。「絶対」はどこにもなく「相対」だけが記号として取り扱われ、競われ、消費される。
そんな心象が2000年代初頭のそれだった。
人間知性とAIの関係、現代社会とメタバースの関係
最前、「『相対』だけが記号として」と書いた。記号について言えば、東は『動物化するポストモダン』のなかで「シミュラークル」という術語でそれを論じる。
シミュラークルとは、コピーの意味がオリジナルに対する解釈を変容してしまうような場合をいう。オリジナルの模倣であるはずのコピーがオリジナルそのものの意味を変化させるようなこと、たとえば恋愛リアリティ番組の「リアリティ」が、番組の演出によってもたらされる「リアリティらしさ」であり、この「リアリティらしさ」に影響を受けた視聴者の「リアル」な恋愛体験を変容すること。あるいは、ひと頃ブームだった、人気アニメの実在する舞台を訪れる「聖地巡礼」といったものもシミュラークルといえる。現実世界の模倣であるはずのアニメ世界の舞台が、現実世界のほうを「聖地」へと変容するわけだ。「聖地」化した現実はアニメ世界にも循環的に影響を与える。
ここでシミュラークルとして言及しているのはフランスの思想家、ジャン・ボードリヤールが『シミュラークルとシミュレーション』(竹原あき子訳/法政大学出版局)のなかで論じた意味で、だ。
リアリティ番組の「リアリティ」と視聴者の「リアル」は互いに影響を与え合う関係にある。合わせ鏡のごとく循環しているのだ。こうした循環によって、現実と虚構を俯瞰するような位置に立ち現れてくるのがシミュラークルだとすれば、冒頭にとりあげたメタバースとは、そのままシミュラークルの世界と同義といえるだろう。
同じ循環は、人間の知性とAI(人工知能)の関係にもあると想像しうる。AIはニューロンなどの研究を通じて人間の脳を模倣しながら、たとえばディープラーニングにおける誤差逆伝播学習法のように人間の脳の神経系では行われないとされる機能をもつ。しかし、人間の脳についてはあまりに未知であり、誤差逆伝播のような神経系の機能が見つかるかもしれないし、脳の機能を変容させる可能性も考えられる。
量子力学と偶有性
ここまでくどくどと現代思想に触れてきたのは、メタバースとは何かを考えるための論点を挙げてみるためだ。このほかにも論点になりそうなものを挙げるだけ挙げておこう。たとえば古典力学と量子力学それぞれの世界観の差がリアルとメタバースの間にあるのではないかとも考えられる。因果関係ではなく、観測や確率によって様相を変える世界とは、シミュラークル的な合わせ鏡の無限性を想定させる。量子力学で扱われる、観測者の存在によって宇宙が決定する「コペンハーゲン解釈」や、さまざまな宇宙が同時に存在する「多世界解釈」といったコンセプトそれ自体がメタバースの先取りのようですらある。早稲田大学高等研究所の森田邦久准教授は『量子力学の哲学 非実在性・非局所性・粒子と波の二重性』(講談社現代新書)で、量子力学は「科学」ではなく「哲学」なのだと述べている。哲学、つまり大きな物語、上位(=メタ)物語なのである。メタバースが量子力学の哲学の影響下にあるのは間違いないだろう。それは、異世界モノ的な想像力、にわかに定着した「世界線」といった言葉や考え方も、その原典が相対性理論だとしても量子力学的な解釈に適うものではないだろうか。
もうひとつ、現実とメタバースの循環に立ち現れてくるシミュラークルを考えるうえでは、「偶有性」という考えも有効に思う。社会学者である大澤真幸の理論で重要な意味をもつ考え方だ。必然性に対比して扱われ、『不可能性の時代』(岩波新書)などに詳しい。偶有性とは必然ではないがありえたかもしれない事態を指し、選択された言動や行動の結果がもたらす意味を支える。必然性と偶有性が循環的に選択結果の意味を決定していると考えることが可能だろう。この循環がシミュラークル的に私たちの生き方(あるいはその見え方)を変容する。
選択肢から逃走、そして戦争
私は1年半にわたって続けるこのレビュー記事においてたびたび現実の生きにくさ、高度資本主義自由経済における選択肢のがんじがらめについて語ってきた。私たちの現実社会はある人たちにとって非常に生きにくい。私もそう考えている一人である。
選択肢が増え、すべてが平等になったことで激化した競争、生きるための闘争領域はどんどん拡大している。ミシェル・ウエルベックの小説『闘争領域の拡大』(中村佳子訳/河出書房新社)にあるように恋愛でさえ競争原理のみで行われる時代である。私は不倫をここまで禁忌とするのは、恋愛格差の拡大に取り残された人たちの被害者意識がもたらした現象だと考えている。1人に複数の相手というのは受け入れ難い格差となるのだ。
私たちはみずからすすんで格差の被害者側となることで選択肢から逃走する。選べない自分に大義を与えるために。それによってより大きな物語に属するために。
中央大の岡嶋裕史教授の『メタバースとは何か ネット上の「もう一つの世界」』(光文社新書)に私がシンパシーを抱いたのは、上記のような現実の生きにくさを著者と共有しているためだ。この本は単なるメタバースの入門書ではない。現実社会のシミュラークルとしてのメタバースを論じつつ、現実社会の生きづらさを抉り出す。ポストモダン社会のなかで、生きる根拠と同時に私たちが見失ったものを取り戻すためにメタバースが持ちうる役割を考えるのだ。それは擬似的な大きな物語としてのフィルターバブルに潜り込むことではない。量子力学的な解釈ともいうべき多様性に満ち、選択肢を無化するほどの自由をメタバースが与えうるのではないかと考えてみる。
炭鉱のカナリアと著者が呼ぶサブカルオタクたちは見ている新しい生が次の時代を予見しているという見立ては、前回の記事で私が見沢知廉にからめて論じたことと同じでもある。メタバースはシミュラークルとして、私たちの社会を次の次元へ運んでくれるのではないか。そんな気持ちになっている。偶有性でいえば、私たちが選択した人生と選択しなかった人生のはざまに現れてくるまったく別の人生をメタバースが提示するのではないか。
願うべきは、メタバースの体験が辛い現実の体験を“聖地”化してくれることなのかもしれない、などといえば宗教的すぎるだろうか。なにやら再魔術化といった考えもでてきそうだ。神話や宗教といった大きな物語とメタバースの関係もいずれ考えてみたい──。
ロシア軍はウクライナに侵攻した。まだ歴史は終わっていない。大きな物語はゲームやメタバースのなかにだけではなく、現実でも復活しようとしている。