自分でやった方がずっとずっとずっとずーっとマシ
こういう記事を過去に書いた。
これも書いた。過去に。
振り返る今。
あぁそうか…。
子どもは成長していく力があると思っていた。たしかにある。私たち大人よりずっとある。できないこともたくさんあるけれど、成長していく力でいろんなことを乗り越えて行くんだと。
でも一方でまだ小さく弱い存在だということも知っていた。知識としては知っていた。なんだか強い気持ちで心に刻み込まれていた前者と比べて、こちらは「知ってた」って感じな気がする。今更こんなこと言っても仕方がないのだけれど。
それでも私はこの知識をもって、その時その時に子どもを守ったり、子どもでも越えられる課題に切り分けたり、まだ難しいものは手伝ったりなどなど、自分なりに配慮して考えていたつもりだ。「つもり」と現実がどれほどに異なるのかはまぁわかるのだけれども、それでも、私も人間で。できることとできないことがあると思いながら、ベストを尽くしていた。
そうだよな…
できることはやってるつもりだったんよ。
そしてそれが今うまくいかなくなっているのは、やはり私の力の限界で、現実なのだと思う。
すごくすごくたち行かない状態になっているわけではない。けれど、これからどうなってゆくのかの不安が強い。親がこんなに不安になってるんだ。本人はどんな気持ちだろう。少なくとも飄々とではない。
そこで、私なんかイキってnoteに書いてたことあるよなぁ…なんて久しぶりに開いて出てきた記事である…。なんと、見るまで忘れてた。
タイトルまんまもう悩んでます、って感じやん?人って忘れる生き物なんですね。記録って大事だな。
しかも読み返して、これってほんまにこんな対応で良かったんかと考え込んでしまっている。
良かったんか…?反省することは大事である。けれど、やってしまった事実は変わらない。良かったも何もない。私の力で辿り着いたのがあれやったんやから、もう仕方がないではないか。息子が不満を訴えてきたり、明確には示さずともそんな雰囲気を悟ったら謝るしかないではないか。それに付随して、話し合ったりとかもするけれども。
現在、霧の中である。
親子関係はまだ破綻していないのが幸い。私も夫も息子の辛さを取り除くためにできることはするつもりである。
けれど。親ができることってどこまでなんだろう…?
私がドタバタ足掻いて走り回ってがむしゃらやってその結果が解決につながるならどんなにいいだろう。でも、これは私だけの問題ではないのだ。と言うか、息子の問題なのだ。もちろん親として私に至らない点があっただろうし、そこはリカバーすべきだ。全力を尽くす準備はできている。だけど、私が全力を尽くすことで全解決する話ではないのだ。息子本人が考えたり、決めたり、諦めたり、頑張ったりしなければならない。それを私は見守るしかない。信じたり、聞いたり、手助けしたり、環境を整えたりしながら、待つしかない。待つしかない。
自分でやった方が何万倍マシやろか…
自分で足掻いて苦しんだ方が楽。彼が悩んだり、泣いたり、落ち込んだり、ふさぎ込んだり、上の空になったり、奮い立たせて頑張ったり、まんべんの笑みのあと人がいなくなってからさっと表情をなくしたり…そんな姿を見るのはとても辛い。自分が落ち込んでいる方がずっとずっとずっとずーっとマシだ。
ねぇ辛いわ。
言わないけどさ。
子どもの前では言わない。
少し泣いたりするけど、そこは堪えきれなくて溢れたりするけどごめん。でも、言わないようにする。力の限りね。私のできることはするね。私も頑張って考える。
ねぇ、君こうやって大人になっていくのかな。
まだ子どもでもいいよ。
まだまだ可愛い子どもでもいい。
甘えてもいい。
だけど、甘えてばっかりの君じゃなくなってくんやな。
すごいな。
そっか。
でも、まだまだいつでも力になるからね。
「ウザい」って言うかな?
うざがられても、でも力になりたいんやけどな。
あかんかな。
頼むわ。
急いで大人にならんとってや。
言わんけど