二人展《空はシトリン》|永井健一&影山多栄子|春から生まれしもの
初夏は幻のように過ぎ去り——まるで生きとし生けるものすべてがじっとわたしたちを見つめているような暑さのなか、本展は幕を上げる。
この熱暑はまぎれもなく、今は遠き〈春〉が産み落としたものである。春は、冬の間ねむっていた生命がいちどきに噴出する季節であって、そこで生まれた命は一直線に、だが静かに夏へと向かってゆく。
本展メインヴィジュアルのひとつ《私の知らない林》に描かれている、煙る記憶のなかに通り過ぎる子どもたち。その幻想は、汽車の窓から眺める景色のように、あっという間に過ぎ去ってしまう。
題材詩には「とし子」の〈不在〉が唄われている。木々の緑が美しく映える風景は「生」を強く感じさせるが、ここにはいない誰かを想いながら見ることで、情景は一転して「死」を含みはじめるのではないか。
永井健一氏がこの作品で「生」と「死」のあいだにある領域を描き出しているとしたら、そこはきっと、やさしさと寂しさが溶けて漂う場所であるのだろう。
本展メインヴィジュアルのひとつ《ダアリア複合体》の透き通ったまなざしにイノセントな白い肌は、宮沢賢治が用いている「過透明な」という形容がまさにふさわしいのではないか。
人形の無機質さと、衣裳の有機的な質感、この相反する要素も『風景とオルゴール』の詩景と強く呼応(エコー)しているように思われる。つまり宮沢賢治のもつ、牧歌的ながらどこか硬質な文体は、非常に「人形的」なのかもしれない。
人形はいつも、何処を見つめているのだろう。
《みちはなんべんもくらくなり》においては、「虚空」というのが正解であろうか。
《ダアリア複合体》と対のようでいて、ほんの少し硬質な——。でも、何度月が満ちて欠けようと、ずっとそこにいてくれるような暖かみも感じるのはなぜだろう。
こうした人形そのものの纏う空気感が伝わってくるような写真は、すべて影山多栄子氏本人によって撮影されたものである。
『春と修羅』は、〈自然〉のもつ特別なエネルギーを、どこか博物学めいた視点で詩へと昇華している。しかしそこには、〈やさしさ〉が確かに存在するのだ。
会場風景写真|霧とリボン
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作家名|永井健一
作品名|私の知らない林
アクリル・水彩・色鉛筆・アルシュ水彩紙
作品サイズ|15cm×22cm
額込みサイズ:26cm×32.4cm
制作年|2022年(新作)
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作家名|影山多栄子
作品名|ダアリア複合体
顔のみ石粉粘土・アクリル絵具・布・ポリエステル綿・ベレット・ビーズ・鈴ほか/両腕はスナップボタンで接続
作品サイズ|身長40cm/座高28.5cm(頭飾りを含む)
制作年|2022年(新作)
*別ショットの詳細画像をオンラインショップに掲載しています
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作家名|影山多栄子
作品名|みちはなんべんもくらくなり
顔のみ石粉粘土・アクリル絵具・布・ポリエステル綿・ベレット・ビーズほか
作品サイズ|身長35cm/座高23cm(頭飾りを含む)
制作年|2022年(新作)
*別ショットの詳細画像をオンラインショップに掲載しています
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