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意見を持つのはすばらしい。だから「あなたの」意見を「みんなの」正義にしないでほしい

思い込みによる暴走ほど怖いものはないと考えています。
相手にとっては駄目なのでしょうが、果たして全員が同じ意見を持っていると断言できるでしょうか?
少なくとも、私には断言できません。何かしらの判断材料がないと選択することは難しいでしょう。

X変わり果てたTwitterのトレンドに、こんなニュースがありました。

あるコスプレイベントが中止になった影響で、その後のイベントや本業などにも支障が出たとして裁判沙汰になった問題です。事の発端はあるコスプレイヤーによるイチ意見でした。
イベントは少人数の参加者がコスプレをして街ブラするというもので、法令上の許可を取る必要はないそうです。しかし、その投稿を見たコスプレイヤーさんが「無許可」「警察の事情聴取を受ける可能性がある」と指摘、主催団体は「許可の必要はない」と公式声明を発表してもゴタゴタはさらに酷いものとなりました。
一連のツイートは瞬く間に拡散されて炎上……公式団体は再三声明を発信し続けましたが参加者のキャンセルが相次ぎ、残念ながら中止となってしまいました。
その後の顛末についてはリンク先を見てもらいたいのですが、私にはどうも他人事とは思えなくてものすごい怒りを覚えました。

特にキているのは、その人自身が正義の味方面をしていること。
確かに自分自身が暴走すれば、己の正義を見てくれる人を集められるでしょう。SEOの原理と同じように、暴走する理由をかいつまんでまとめられれば簡単に筋がまかり通るからです。
パッと見れば、被害を未然に防いでくれていると思うでしょう?ほとんどの人は根幹そのものがよく分かっていないのですから。敵を知らないまま正義の叫びに乗っかって同調していくこの流れ……いくら日本人が同調圧力に弱いからとはいえ、批判先そのものを知ろうとしないのはあんまりではありませんか?
何がおかしいって、暴走している本人は自分自身を共感してくれる人を味方に引き込むんですよね。法的にアウトかどうかはネットで簡単に調べられることでしょうに……そんなに自分にそぐわない人が目障りで仕方がないのでしょうね。

大学の頃、ゼミの先生が言っていました。

「自分の発言に責任を持ちなさい」

これは、何らかの形で言葉を残すときの覚悟を説いたものです。ゼミでは署名で言葉の担保を持たせていました。

インターネットが近くなったこともあり、自分の意見が言いやすい世の中になりました。様々な言論が飛び交うことはとても素晴らしいことですし、全く想定していなかった考えと出会える幸せを噛み締めています。
ですが、自分の考えを強く出しすぎている人が多くなっている気がしてなりません。この原動力がどこから来ているのかは問いませんが、確固たらしめる前にもう少し俯瞰的に見ても良いと思うのです。
当たり前ですが、あなたの意見は一つの意見であって全員が全員同じわけではありません。共感してくれている人は出るでしょうが、そこに至るプロセスは全く違います。そのあたりを勘違いしている人の多さに思わず閉口せざるを得ません。

あなたの治安維持は、時に迷惑をかけます。
大多数が害を被ることだってあります。
この被害は、正義として必要ですか?

私は正しくありませんが、あなただって正しくないですからね。

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