掌編小説【ある日、森のなか】
お題「熊、出没注意」
「ある日、森のなか」
森の入り口にはたしかに「熊出没注意」の立て看板があった。
まさか本当に出るなんて。でも私の目の前には熊がいる。
こんな時は先に動いた方が負けだ。私はそう信じている。
あの時もそうだった。
恋人と些細なことでケンカになり、二人とも身じろぎもせずにらみ合っていた。
私は叫びたいのをこらえてジッとしていた。
その時、カシャンと小さな音を立てて私の耳からイヤリングが落ちた。
恋人はハッとして床に目を落とした。張りつめていた空気が溶けた。
それは恋人からの初めての贈物だった。
そういえば今日も付けていたはずのイヤリングが私の耳に感じられない。
途中で落としたのだろうか。でも今は確認できない。
目の前には熊がいる。
熊がのそり、と動いた。近づいてくる。冷や汗が出る。視野が狭くなる。熊が目前に迫る。熱い息が顔にかかる。
と、熊は私の手を取り、手の平に白い貝殻の小さなイヤリングをのせた。
大きな爪でつままれたイヤリングはことさら小さく見えた。そして熊の手の平からはハチミツの甘い匂いがした。
熊はくるりと背を向けるとゆっくりと立ち去っていった。
その姿に、あの日恋人が背を向けて出ていった時の姿が重なった。
私は恋人に、勝ったのだったか?
おわり(2020/2 作)
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