見出し画像

【非モテ論から弱者構造を考える】


■非モテには苦しむ事も許されない|rei
https://note.com/beatangel/n/n57f33944aa5a

以下、本文の引用。

「「弱者が弱者と認められ、苦しみの吐露を許されるようになるには強者にならなければならない」というパラドックスの話である。

結論から言えば「私は苦しい!」と声をあげられること自体が「恵まれている」証であり、苦しみを聞き入れて貰うほどの魅力や権力といった「強者性を持つ」証でもある。

(中略)

今や内心の自由、そして苦しむ事は特権と化した」

引用終わり。

非モテというか弱者モデル全般に言える気がする。弱者というか、凸凹発達障害者は、何かその凹みを越える強みがあって初めて弱者として正当に受け入れられる…?

やはりこの辺りも資本主義社会で蔓延した【生産性という呪い】がかかっているのだろうか。生産性賛美は明白な宗教を持たざる資本主義者にとっては宗教的シンボルに近いと感じる。近年ますますその傾向が強い。

弱みの受容と強み…部屋が汚いこと、家事が苦手なこと、聴覚認知?に問題があること、記憶力に難があること…私が色々とダメな部分を赤裸々に好き放題書けるのは、歌を作ったり文章を書いたりして強みを同時に発信しているからかもしれない。

これだけ対価?を支払うから弱みを見逃してくれよと世間?に向かってゴリ押ししているのかもしれない。本来強みと弱みそれぞれは関係ない事象なのに。

無意識に私も【ただ弱くあること】に対して引け目を感じて心にバリケードを築いて自分を守っているのだろうか。

苦しむ権利。それは強みを持たない人ほど保証されなくてはならないことのように思う。

けれどそれがこのnoteのreiさんが言うように今の日本の社会で保証されていないとするならば、自分や身近の大切な人たち、何より息子たちのために、一体どこから変えていかなくてはいけないのだろうか…

そのことを考えたとき、茫漠と果てしない砂丘に降り立ったような心細い心持ちがした。

#6時間睡眠

追記・あとは、【スルーできる事】も強さなんじゃないかと思う。発達特性的にも、スルーするという相手をジャッジして切り捨てる、という物理的?な決断にも、強さが必要だと。

これの後に投稿した小山晃弘さんのシェアで、お母さんの虐待で「黙ってる」ことが許されない場面が出てくるけど、結局は無反応=スルーが認められる、そう判断できるのも強さだと思うんだよね。

本当に弱い人はスルーができない。相手を反射的に攻撃するか、心が囚われて苦しいのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!