ゆるく生きる
ただ今朝の5時15分。
こんな時間にパソコンを起動して文章を書いている。
今年も夏の鬱期間が終わりを告げようとしている。
鬱が治ったんじゃなくて、躁鬱だった。
(私にとっては躁鬱という言葉がしっくりくるので躁鬱と書くが、今の医療用語的には双極性障害2型、という方が適切ではある。)
鬱が治ったはずなのに、どうしてこんなにしんどい時期が定期的にやってくるのだろうと、余計辛かった。そんな生活を数年過ごし、やっと躁鬱なのだと気がついた。鬱が治ってもう大丈夫、なのではない。躁鬱ですよ、薬を飲まずに生きるなら、躁鬱の波は自分で乗り越えていかねばならない。
躁鬱の波は自分で完全にコントロールすることはできないし、コントロールしようとしたり、コントロールできるものと考えてしまうと余計に波が大きくなる。
ちょっとスピ系ぽい響きがするが、とにかく自分の心の声や、自分の体の声に耳を済まし、なるべくその声にしたがって調子に乗らないことが大切である。心の声もうっかりすると、「ちょっと躁気味になって調子に乗っている心の声」の場合があるので要注意だ。外出などしていて「もう少し遊んでいても大丈夫そう」という時は大抵テンションが上がっているからなだけで、その声に従って外に長居すると、帰ってからどっと疲れて動けなくなってしまう。
双極性障害2型は境界線が曖昧なので、本人は病気と気付かないことが多い。かくいう私も、自分自身が訪問看護師としてうつ病や双極性障害の患者さんのケアをしているのに、自分のことを「鬱が治った人」という思い込みから、双極性障害という事に長く気付かなかった。
自分の異常さ、不自然さに気付かなかった。
「普通」は、毎日がしんどくて心がずっと息切れしていることはないし、週末は動けなくてずっと寝て過ごすなんてこともないのだ。
その状態は疲れているからしょうがないのではなく、もうすでに異常だったのだ。
ここ数年は長期の躁状態で、躁状態の中で鬱の波が来るような日々だった。
今思うと躁状態の時は、すべてが上滑りしていた。
多幸感と万能感。
たくさんの人に出会ったし、たくさん行動して、たくさんお金も使った。
もう2度とあのテンションであの生活はできないと思うし、したいとも思わない。あの頃の自分はおかしかった、躁状態だったんだな、とだけ思う。
躁状態のころの自分のことを思うと、とんでもねーなーと思う。
穴があったら入りたい。取り消したい。
とにかく、多幸感であふれていて、何をしてても幸せだし、自分が存在するだけで周りの人たちをも幸せな気持ちにできると思ってた。自分ならできる、自分はすごいという万能感があった。
だからこそハイテンションで何かしらずっと行動していたのだ。
今の自分は、そんな精神状態がおかしいということが分かるので、そんな人がいたら近付きたくない。
でもその頃の自分に少し感謝もしている。
今の自分に残った人間関係は、すべて躁状態の多幸感と万能感でいっぱいだったからこそ行動して知り合えた人たちだから。普通、では出会えなかった人たちだから。あの頃の自分がいなければ、多分本当にひとりぼっちだったと思う。
東京から離れ、地元に戻ってきてから、私には「ちょっと遊ぼうよ」と気軽に会える友人はほぼゼロである。友達はいるが、それらはみんな東京、北海道、四国、九州など全国津々浦々にいるので、会うとしたら旅に出ねばならない。どうでもいい友達はおらず、大切にしたい友達は離れた場所にいる。だから普段はとても暇である。約1名、毎日息をするようにLINEをやり取りする人がいて、その人との会話で人間性を保っている。
躁状態で多幸感と万能感に溢れていた自分は、どこか歪だったけど、世の中にはきちんと自己肯定感を高く持ち、歪ではない多幸感と万能感を持ち合わせて生きている人がたくさんいる。
きっと、躁状態になったおかげで一時的に多幸感と万能感を持った人たちと出会えたんだと思う。チャンネルが合った、という感じかもしれない。
躁状態の歪なテンションではなく、今の自分はとても淡々とした状態ででも幸福感を感じることができる。
歪な万能感ではなく、自分は大丈夫だと自分を信じることができる。
これは、幼少期にきちんと自己肯定感を持てた人なら当たり前のことで、わざわざ人生の中で獲得する必要がなかったりする。
すでにそれを持っていて、その次のことをしている人たちを見ると、自分の不甲斐なさや不出来さを恨み悲しみ蔑んでしまっていたけれど、そんなこと今更どうしようもないことなのだ。そこで停滞するとますます自分が辛くなるだけ。
「その人たち」と違って、自分はそれを、わざわざ時間をかけて獲得していく人生なのだ。明らかにして、諦めて、受け入れて、前を向く。
SNSが発達した世の中では、今までは見なくて済んだことが目に入って来る。見ることで、見るべきものが見えなくなることが沢山ある。
私は40過ぎて独身で子供もいなくて地元に帰ってきて、端から見たら何も持たない人間かもしれないし、時々自分で、自分は何もない人間だなあって思ってしまう。誰にもそんなこと言われていないのに。
でも、結婚して子育て中だったりしたら、自分の心や体の声を聞いて、鬱気味だから仕事から帰ったら9時に布団に潜り込んで寝てしまうなんてこと出来ないだろう。他人に合わせ他人の為に自分をすり減らして今の自分がいて、今は、自分のために自分のペースで、おそろしくゆるく生活している。
そして、ゆるくゆるくゆるく、心と体の声を聞いて生活してみてやっと、今、自分のペースが掴めてきた。生きるペース。
42にもなって、やっとかよ。
自分にそう突っ込める余裕も、少し出来た。
こうやって、文字にする力も湧いてきた。
少しづつ、少しづつ。
私は、私のペースでゆるく生きることができる。
朝、自然に目覚める事が出来て嬉しい。
目覚めた後、動く気力があるのが嬉しい。
そんな、小さな小さな自分の伝えたい事、少しづつ綴っていける場所があるのも嬉しい。
ありがとうって思えるのって、嬉しいよね。