40年引きこもった鬱病の叔父へ
※初めに…note初心者&長くて拙い文章で読み辛いところもあるかもしれませんがご容赦ください。
私の叔父に対する今のこの想いを忘れたくはなかったのでツラツラと書き留めてみました。
私の叔父は現在60代ですが、20代で鬱病になり、そこから約40年引きこもりを続けて無職で生活保護を受けながら実家で両親、父方の祖父、父方の叔父と約20年同居しています。
私と弟は上京し、祖母は15年前に癌で他界しました。
私は物心ついた時から鬱病の叔父さんと暮らしていました。私が幼い頃は弟と一緒に可愛がってくれて…
私からしたら「働かないけど普通の親戚のおっちゃん」でした。おっちゃんの誕生日にはこっそりお手紙を渡した記憶があります。
私と弟が小学生でまだ祖母も元気に暮らしていた時のことです…
弟がおっちゃんに少しちょっかいをかけて、おっちゃんが声を荒げて急に怒鳴りはじめて、物にあたり、弟も私も泣き、祖母が止めに入ってきました。そんなおっちゃんの姿を見たのはその時が初めてで、祖母が「ごめんね、怖かったね、おっちゃんは病気なの。」と。この時に初めて病気だと知り、あの時のおっちゃんの姿が恐ろしくて、私と弟もあまりおっちゃんに話しかけなくなりました。
その頃から両親もおっちゃんが私や弟に危害を与えないようにおっちゃんに対して冷たくなったような気がします。
元々《両親と私と弟》と《祖父母とおっちゃん》で別々に暮らしていましたが「祖父母がおっちゃんの面倒を見るし土地があるから一緒に住みたい」とのことで二世帯住宅に住み始めました。しかし、住み始めて数年で面倒見の良くて優しい祖母が他界しおっちゃんの面倒を両親がみるようになりました。
面倒をみると言っても、食事ができたら「ごはんですよ〜」とおっちゃんの部屋のドアの前で呼んで、3食みんなで一緒に食卓を囲み、薬を飲むように催促し、数ヶ月に一回病院に連れていくぐらいで、洗濯は別ですし、母の仕事が忙しくなってからは、食器洗い、ゴミ捨て、お風呂洗いはおっちゃんがするようになりました。
祖母が亡くなってから数年後、父の知り合いの工場で働かないかとおっちゃんに声がかかり、アルバイトですが、なんと働き始めました。
初出勤した日の夜、おっちゃんが奮発してお肉を買ってきてみんなで焼肉を食べたのを今でも思い出します。
私と弟でおっちゃんに「ありがとう」と伝えました。
今考えると鬱病が少し軽くなった時期だったのかなと。
しかし、それから2日後、おっちゃんが辞めて帰ってきました。まだ2日しか経ってないのに。
父が仕事場の人に聞くと「仕事で上手くいかず怒って仕事を放棄して帰った」とのこと。「流石に放棄はよくないでしょ」と中学生ながらに見損ないました。そこからは、また引きこもりの日々を過ごします。
《朝起きてご飯を食べる→食器洗う→8時にゴミ収集車が来るので二軒隣のゴミステーションにゴミを持って行く(途中から何故かおっちゃんのためにゴミ収集車が家の前で停まるようになりました)→お昼を食べて食器を洗う→お風呂洗う→夕食食べて食器洗う→風呂入る… 》
毎日これの繰り返しです。
週に2回ほど午前中に自転車でどこかに出かけますが多分買い物と洗濯だと思います。
それ以外は本当に自室から一歩も出ず何をして過ごしているのかもわかりません。友達も(きっと)いません。恋人もいません。独身です。携帯電話もありません。田舎ですが車もありません。部屋に私も両親もほぼ入ったことがありません。部屋からはいびきと夏は扇風機の音しか聞こえません。来客があった時は、一歩も出てきません。鉢合わせる事がないので、私の友人が遊びに来てもおっちゃんの存在を知らずに帰ります。私の夫も何度も泊まりに来てますが同じ家にいるのに一度も鉢合わせたことがないです。
私は大学卒業後、仕事のために上京してバリバリ働き、恋人もできて実家に帰れないほど慌ただしい日々を送っているのに、私が年に数回帰省するとおっちゃんは変化のない日々を送っています。良い意味でも悪い意味でも。おっちゃんだけゆったりとした時間が流れてるように感じます。仕事が辛い時に帰省した時には、生活保護を受けながら何にも追われずのんびり過ごしているおっちゃんを羨ましく思ったこともありました。『あぁー、実家に帰りたいな。好きな仕事だけどもう仕事なんて辞めちゃいたいな。』
そんな私もアラサーになり結婚して、つい最近第一子が誕生しました。東京で暮らしていましたが、里帰りすることになり仕事も休職して、妊娠6ヶ月頃から産後2ヶ月の今でも未だに実家にお世話になっています。
里帰りしてすぐのある日、母がおっちゃんのかかりつけの精神科の診察に行くとの事だったので一緒に行きました。(おっちゃん本人は病院が嫌いでなかなか行かないので、母と医者がお話ししてお薬を数ヶ月分もらうためだけにいきます)
ちょうどその日、医師から「部屋が一つ空いたから精神科の部屋を内見できます」との事で私も付き添いました。
山奥に病棟があってお部屋も自室と変わらない広さで食事もしっかりついていて生活保護費内で生活していけて不自由なく生活できそうなところでした。
祖父ももう90代。おっちゃんも60代。両親も60代。
祖父に関しては何かあってもおかしくない年齢で、両親も10年もすれば自分たちの生活で精一杯だからもし祖父と離れてしまうことになればおっちゃんはこの病棟に入ってもらう予定で両親は準備を進めていたみたいです。
帰宅後、おっちゃんの兄である父から、部屋の詳細のホームページのコピー&おっちゃんの気分を害さないように「そろそろ施設に入らないか」といったニュアンスの長文のオブラートに包んだ丁寧な手紙を渡しました。
その返事はNO。理由は、この家に部屋があるしご飯も自分でなんとか出来るし出ていく必要はないから。
父は基本優しいですが、祖父とおっちゃんだけには少し当たりが強いです。わからなくもないです。自分は頑張って働いてるのに疲れて家に帰ってきたらのうのうと変化のない毎日を過ごしている2人がいるのだから。
父が2人と話しをする時は大体喧嘩になるので周りも毎度ヒヤヒヤしてます。家で大きなホットプレートで焼肉をする時は祖父が父の邪魔をしたりおっちゃんが自分の食べる分を自分で焼こうとしなかったりで大体喧嘩になってます。
子が誕生して1ヶ月経ったある日、私が焼肉がどうしても食べたくなってリクエストしていつも通り不穏な雰囲気でホットプレート焼き肉をしました。その時に、おっちゃんは無理をして食べているように感じました。その日から夕食の白ご飯を丸々残したり、すき焼きをしても一つも手をつけなかったり、朝食の食パンを2枚食べていたのに1枚しか食べなくなったり。周りも薄々気づいて、両親も病院に行こうと誘っても「行かない」の一点張り。病院に行ったらこれから一生病院に入れられると思ったんだと思います。
その日から1週間ほど経ち、おっちゃんの食生活は変わることはなく、とぼとぼ歩き、何故かズボンも毎日半分お尻が見えるぐらいまで下がり、痩せこけて弱っていくのが目に見えてわかりました。
おっちゃんは生活保護が入ると毎月必ず生活費を母に手渡ししますがその月はそれがなく、両親が生活費はどうするのかと聞きました。すると、「いつも乗っている自転車が動かず、銀行に下ろしに行けない。」祖父の電動自転車を借りればいいんじゃないかと言うと「祖父に言ったけど貸してくれない。だから生活費も下ろしにいけない。」と。
それを聞いて両親は「生活費を下ろしにいけないからその後ろめたさで食事をあまり食べないんじゃないか」と思ったそうで、次の母の休みの日に母がおっちゃんを銀行に連れて行くことになりました。
でも、私はやっぱりおっちゃんの様子は後ろめたさで食べないとかではなく目に見えて日に日に弱っていっていると思い、母に伝えると、銀行の後おっちゃんには事前に伝えず精神科の病院に無理やりつれて行ってくれることになりました。
銀行と病院に行く日。叔父は支度をし玄関で靴を履いている際に母が『お尻が半分見えてるからみっともないからしっかりズボンあげて』と伝え、おっちゃんが『最近ズボンがずれてくる』と言って服を捲り上げたその時…
見たことがないぐらいおっちゃんのお腹が膨れていました。
それはもう私の妊娠後期ぐらい。いつもだぼっとした服を着ているので周りも気づきませんでした。
母が『何そのお腹!なんでもっと早く言わなかったの』というとおっちゃんは『祖父には伝えてた』と。
祖父は耳が遠いんです。遠すぎるんです。
特に男性の低い声はほぼ聞こえてないからいつも声が高めの母や私が代わりに大きな声で伝えるんです。
あとから祖父に聞いたら『知らなかった。』
おっちゃんは実際に伝えてたけど、祖父には聞こえてなかったんだと思います。
『気をつけてね。』
私は玄関先で見送りました。
母が付き添い、かかりつけの精神科の病院でお腹のことを伝えると「ここより先にまず内科へ」と言われ、内科に行き腹部の検査をして画像をみたところ誰が見ても異常なことがわかるほど腸が真っ白に映っていたそうです。受診前に母がこの内科の受付におっちゃんがうつ病を患っていることを伝えていたこともあり、医者が配慮してくれて「腸が白いでしょ?便も溜まっててこのままだと口から便が出てきちゃうよ?嫌でしょ?総合病院に紹介状書くから取り除いてもらっておいで?」と大きな病院に行くのを嫌がるのを見越して優しく伝えてくれたようです。
総合病院にいき検査をしたところ、おっちゃんは
腸がん
でした。
がんが邪魔をして腹水が大量に溜まり便が溜まっていたんです。すぐに集中治療室に行くことになり、まずは腹水と便を取り除く手術をしましたが、その腹水などの菌が肺に入り肺炎を起こしてしまい自分で呼吸できなくなってしまいました。医師からは「今日明日が山です」と説明があり、私たち家族は眠れない夜を過ごしました。
父は「ただ銀行に行って病院に行って薬もらって帰ってくるはずの弟がこんなことになるなんて」と言葉を詰まらせていました。
手術翌日、病院からの症状の悪化の連絡はなく少しホッとしていましたが、面会に父と祖父が行きましたがおっちゃんはまだ集中治療室でした。管にたくさん繋がれて意識もなく声をかけても反応がなかったそうです。
そしてその次の日の今日の午前中、父が好きなドジャースの大谷選手が世界一になる試合をテレビで一緒にぼーっと観戦をしていたところ、一本の電話がありました。病院からです。「今自分で呼吸できていない状態で、これ以上症状が良くなることが見込めないから透析をはずした方が辛くないと思います。病院に今から来てもらえないでしょうか。」
父と祖父は向かいました。面会をしたみたいですが、前日と様子は変わらずでした。
午後には父と母が病院に行き、「明日の朝には透析を終了するからこれが最後になるかもしれないから声をかけてあげてください。意識がなくても耳は聞こえてますよ」と言われて声をかけ続けたそうです。
するとおっちゃんは、意識のない状態でそっと涙をこぼしたそうです。
私にはまだ産まれて間も無い子がいるし、きっとおっちゃんを見ると私が辛くなるだろうからと配慮してくれて両親は私を面会に連れて行ってはくれませんでしたが、おっちゃんのことを色々考えてしまい今の管に繋がれて苦しんでいる状態を想像して泣き、寝不足なのに寝れずで、広い実家なのに狭い部屋に全員集まり川の字になって布団に入りながら今1人でおっちゃんのことを思い出して想いを綴ってます。
明日で最後になってしまうのかな。鬱のおっちゃんに何か私ができることはなかったのかな。鬱じゃなかったらもっと楽しい人生だったのかな。なんでもっと早くにガンの症状に気づいてあげれなかったんだろう。里帰りしてから母が仕事の日は私が夜ご飯作っていたけど、ガンでお腹苦しいのに無理して頑張って食べてくれていつも『ごちそうさん』って言ってくれてたのかな。なんで『ごちそうさん』っていつも言ってくれてたのに私は返事しなかったの…
色々考えて責め続けてしまいます。
明日の午後、私は偶然子の診察でおっちゃんが入院している病院を受診します。
明日会いに行けたらおっちゃんにここに書いた想いを伝えてきます。
『がんばれ、おっちゃん。』
ここまで拙い文を長々と読んでいただきありがとうございました。また暗い話で申し訳ございません。