あの日の夜、聴いたのはマカえんだった。
マカロニえんぴつ。いや、なんだそのバンド名。(この台詞はこの間も言った気がする)
でも助けられちゃったんだよな。あの日の夜をマカえんに。
あの日、どこを見ているのかわからないそんな眼で、別れを告げて。もう一生を終えて良いくらいの気持ちになった、深夜の2時。彼の服の裾を掴んで、下唇を噛んだ。その日は、やたらと蝉の声が鼓膜を通り抜けて、脳内を刺激していたのだ。私にとっての9月は苦悩だった。
そんな私の夜を救ったのが同じ月にリリースされたマカロニえんぴつのミニアルバム「season」だった。
2019年、マイクを握りしめて7年目の彼らは私と違って前に前に前進して、全国ワンマンツアーを走り出していた頃だった。
その頃に、友人に教えてもらったマカロニえんぴつは、なんだかもっとずっと前から知っているような感じだった。
なんていうんだろうか。寄り添い上手、彼らはまるで恋愛相談にのってくれる優しい友達のように思えたわけで。お酒が苦手なのに居酒屋で何時間も居座って、何度も同じ話をしているのにも関わらず、頬杖をついてずっと頷いていてくれるような友達。
泣いている私の肩を抱いて、隣で微笑み優しくて寂しそうなそんな音楽を口遊んでいる。まぁ、実際急に歌を歌い始める友達がいたらドン引きしてしまうんだろうけど。
傷心してたからなのだろうか。純粋に声と音楽が好きだったからなんだろうか。あの時、心を奪われるのがものすごく早かった。
速攻でライヴに足を運んでしまったし、CDも気がついたら大人買いをしていた、短期間のうちに彼らの存在がわたしの棚に飾られた。
いつだったか、ぴあフェスにだって足を運んで、彼らのライブをみて(最後らへんだったけど、トリはまだいた)満足しすぎて思わず帰ってしまったくらいだ。
あの日の落ち着いた夜の空気と彼らの音楽はもの凄くあってた、じわじわと目頭を刺激して、膝から崩れるかと思ったんだもの。グッドミュージックを届けるから、彼はそう言った。
それから日々、仕事帰りとかなんとも言えない気持ちで帰路をいく時、イヤフォンから流れてくる彼らの声に耳を預けると「なんだかな、」というどうにもならない気持ちを彼は代弁してくれているみたいに思えた。
我らが真ん中分けの申し子はっとり(Vo.G)のいわゆるエモーショナルな歌声と彼が綴る文学的な詩、そしてバンドとしての彼らが生み出す緻密なアンサンブルは優しくて、まるで身体と心をまるごと包んでくれるみたいだった。
好きな人が寝ている布団に潜り込むみたいな。でもその好きな人には、別の好きな人がいて報われない恋愛をしている感じ。でもその恋愛は無駄じゃないって思わせてくれるような感覚。
恋をしていたんだなって。教えてくれる。
人生の選択肢の何を選んでも、後悔なんてどこにもないし「いまがさ、辛かったらこっちにおいでよ」って言ってるみたいだったのだ。彼の音楽は、本当に寄り添ってそばにいるみたいで、少し泣きたくなったりもするなと思う。
人生の儚さと切ない恋心、それぞれの楽曲に込めた想いが、アップテンポなリズムで次々に奏でられていく。彼のビブラートの効いた歌声が鼓膜を揺らすと一体になるみたいに溶けていく。さっきまで、沼に浸かっているような足取りだったのに、ね。
どうしてそこまで逃げ場であってくれるんだろう。でもマカロニえんぴつという彼らの音楽とバンドは、辛くなった人生の逃げ場でもあるし、そこから、逃げ場だけにしない。彼らの音楽はちゃんと背中を押して、追い出してもくれるのだ。
誰しもが持つ後悔や苦悩を優しく肯定して、優しい背中をおす。そう、私の糧になったように、きっと、いま誰かも救われているだろう。
聴いてほしい。
きっと、救われる夜が幾度となくある。
誕生日のお祝いを込めて。