高丘哲次『約束の果て: 黒と紫の国』〜取り零された者たちの偽史を巡る中華ファンタジー〜
小説という言葉は“稗史小説”から来ているそうだ。
元は中国で、国が正式に編纂した歴史書の“正史”や政治への志を説く“大説”には入らない、稗官(下級の役人)が民間の話を記録したような取り留めもなく真偽も怪しい話を指す語が、物語の意味に転じたという。
高丘哲次の『約束の果て: 黒と紫の国』は小説の本来の意味に相応しい小説。
高丘氏はこの作品でデビューし、日本ファンタジーノベル大賞を受賞した。
ファンタジーといってもただ現実とは別の世界や幻想的な生物がいるだけじゃない。
この小説の主軸は作中の世界でも眉唾物の創作とされた偽史を読み解いていくこと。
近代中国を思わせる架空の国・伍州で発見されたひとつの矢形の青銅器から物語が始まる。
そこに彫られたふたつの国「壙」「戴南(本編では異がの部分が至・変換できない)」は、まともな史書とは呼べない御伽噺じみたふたつの書物にしか登場しないものだった。
研究を任された歴史学者はふたつの偽史を突き合わせて解読を進める。無駄と思われた行為はいつしか国や時代を超えて、大きな歴史の流れに埋もれた小さな者たちの想いを掘り起こす作業に変わっていく。
物語の大半は、ふたつの偽史を交互に参照していく形を取る。
ひとつは古代。未開の地の穴ぐらに住む一族の少年・馬九(本編では虫偏に馬・変換できない)の物語。
神とひとが今より近かった時代のように、この章には識人という各々動物に近い姿と人間を超えた力を持つ異形の存在がいる。
馬九は族長に連れられ、毎年行われる識人の弓比べの儀式に参加し、瑶花という少女に会ってから、神をも凌ぐ弓の名手として成長していく。
全ては瑶花と交わした約束のため。ファンタジーらしい成長譚とボーイミーツガールになるかと思われた話は、歴史の濁流という悲劇に飲み込まれて捻じ曲げられていく。
もうひとつは巨大な帝国が小さな諸国を統べる中華大陸を思わせる少し先の時代。
大国の壙から辺境の戴南へ国の安寧を祈るべく、末端の王子・真气が送られる。彼を迎えたのは代々同じ名を継ぐ女王・瑶花。
真气は祈祷に邪念を持ち込まないため、常に目を閉じているが、厳格な自国とは違う牧歌的な戴南と国民に惹かれるが、旅路には残酷な刻限が近づいていた。
彼らの物語は歴史の中では小さな一点だ。解き明かさなくても生きていくには何の支障もない。
でも、研究者たちの執念を追体験するようにふたつの偽史の重なる点と物語の果てを求めて読み進めてしまう。
歴史の“語られたもの”という側面に焦点を当てた、史学的で考古学的で重厚なファンタジーだ。
馬九、真气、ふたりの瑶花を取り巻く者たちの物語や、タイトルの意味やふたつの偽史が交錯するミステリ、識人などのファンタジーやSFとして熱い要素もたくさんある。
戦乱や残酷な歴史など中国らしい要素に散りばめられているので、中華ファンタジーが好きだけど後宮ものや恋愛重視のものはあまり得意じゃないひとにもお勧め。
大きな歴史の流れに掻き消されたちっぽけな稗史小説。
彼らがかつて伸ばせなかった手のたった数メートルを繋ぐため、何千年と何万里をも費やした約束の果ての物語だ。
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