〈三春町への旅2024〉③田村麻呂ゆかりとされる田村大元神社へ〜彫刻の素晴らしさに感動!
三春町の田村大元神社の祭礼で奉納される、新町の長獅子を見るため、7月14日(日)、三春町へ電車旅。街歩きを楽しみ、町内最古の寺院であり、東北有数の蓮の寺として知られる宝蔵寺で、蓮を撮影。
神輿を先導して旧町内をめぐっているはずの長獅子を探そうと思ったのですが、ちょっとお疲れ気味のわたしでした。
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予定変更!さくらホールで一休み
宝蔵寺の蓮を見たわたしは、町内某所へ。朝から「まあまあ」な距離を歩いたせいか、少しおなかが減ったので、少し早めのランチをいたしました。
本当は町内を巡行する神輿と長獅子を探し、神社まで追いかけながら撮影する予定でしたが、平日のハードワーク(肉体労働)が響いたのか、その日の私は疲れていました。
祭礼のメインは、19時からと思われる神輿還御と獅子舞の奉納です。夜の撮影用のフラッシュを持っていないため、夜の撮影は毎回毎回残念な仕上がりに💦
本当は昼間撮影したい。だけど、月曜(明日)からは、またまたハードワークな日々。「長獅子を追いかけたいけど、ここで疲労困憊するわけには行かない!」と自分に言い訳して、三春町役場庁舎2階の「さくらホール」で一休み(またか!)
役場庁舎の1階と2階には、町民に開放しているホールがあり、休日でも利用することができます。全部のデスクではありませんが、コンセントも使用できるため、ときどきパソコン作業やスマホの充電に使わせていただいていました。
旅をするにあたっては、「誰でも利用できる公共施設」をチェックしておくと便利かもしれません。三春町図書館の学習コーナーもよく利用していたなあ。あとは、「まほら」の待合室も。
コチラは役場庁舎2階の「さくらホール」からの眺め。
そうこうしているうちに、雨が降りだしました。
マズイ…傘を持ってこなかった…。シトシト程度の降り方ならしのげる上着は持ってきましたが、それではカメラが濡れてしまいます。
そこで、警備の方にお願いして、常備されている「みんなの傘」をお借りすることに。「返却はいつでもOK」とのこと。これには本当に助かりました。
三春町役場様、ありがとうございますm(_ _)m
そんなこんなで、17時頃、田村大元神社まで歩いてみました。
途中、こんな案内を発見!
やはり神輿の還御と長獅子奉納は、19時頃からのようです。
そこで、まずは神社に参拝することにしました。
元のご祭神は大元帥明王〜坂上田村麻呂伝説が残る神社
田村大元神社は、町内の「山中(さんちゅう=地名)に鎮座される旧新町の鎮守様。
境内におかれた「概略」によると、創建されたのは、延暦年間(782〜805)とのこと。坂上田村麻呂が征夷大将軍として東夷征討の途中、磐城国岩瀬郡小山田村今明王壇に国常立命を奉斎し、武運長久を祈願したことに由来するそう。
その後、永正元年(1504)に田村義顕の三春移城に伴い、守山字山中(郡山市田村町)の「大元帥明王」を三春城三の丸下に移し、領内総鎮守として祀ります。江戸時代は三春藩主の秋田氏の総藩社として崇敬されたとのこと。
神仏混交から「明王様」と呼ばれ、神仏分離の後、明治3年、大志大山神社、同12年に田村大元神社と改称されたそう。
ご祭神は、国常立命(くにのとこたちのかみ)とされていますが、町内の歴史に詳しい「三春昭進堂」さんのサイトによると、
「明治時代初頭に発令された神仏分離令により形式上は仏式を廃し、祭神として国常立命が勧請され、社号を『大志田山神社』に改め郷社に列しています(後に田村大元神社に改称)」ようです。
また同じ新町の真照寺が別当寺院だったとのこと。明王堂は明治4(1871)年、廃仏毀釈によってとりこわされたそう。
どうやら、明治初期の神仏分離令の際、祭神として国常立命が勧請されたようです。
それまで祀られていた神は、密教の「大元帥明王(だいげんすいみょうおう)」。田村麻呂が祀ったのは、大元帥明王だったのでしょうか? どうも国常立命(くにのとこたちのかみ)なではなさそうです。
「磐城国岩瀬郡小山田村今明王壇」って、どこだろう? 郡山市田村町に鎮座する田村神社の場所をさすなら「磐城国」ではなく、「安積郡」のはず。もしかして、田村麻呂が神を祀ったのは、今の田村神社(郡山市田村町に鎮座)とは違う場所なのかも? それとも田村麻呂が奉斎したというのも、明治時代のあとづけだったり…?
(明治期の廃仏毀釈を逃れるため、神仏習合の神ではなく、神道の神を新たに祀った神社は結構あると聞きます)
密教の神とされる「大元帥明王」は、もともとはインド神話の神で、かつては弱い者を襲って喰らう夜叉でしたが、仏教に取り込まれ、密教では大日如来により善神に変わったとのこと。
そして、その巨大な力は国を守護する護法の力と変化し、「明王」の総帥となったそう(だから大元帥明王なのですね)。宮中では、古くから「大元帥明王の秘法」がさかんに行われてきたそうです。
検索したところ、中世にこの地を治めていた田村氏は、(諸説ありますが)坂上田村麻呂の子孫とされており(あるいは名乗っていただけ?)、大元帥明王や帝釈天など神仏習合の神を信仰していたとのこと。
田村麻呂が祀ったという縁起と田村氏が信仰していた大元帥明王は結びつくのでしょうか? 田村麻呂の東征と、密教ブームは同時期といえば同時期ですが……このへんを探っていたら、また沼にハマりそうになったので、後日まとめることにします。
慶応3年の建設。精緻な彫刻に彩られた重厚な隋神門
ここからはいつも通り、写真中心に神社をご紹介します♪
神社が鎮座されるのは、「おまつり道路」を東へ進んだ「山中」交差点。写真背後のこんもりとした社叢の中に社殿があります。
鳥居をくぐり、石段を上がります。
「まあまあ」な高さの石段をのぼると、随神門が見えてきます。
この隋神門は慶応3年(1867)に仁王門として建築されたよう。彫刻がすばらしい。
隋神門の両側に配置された「金剛力士像」。これも神仏習合の名残かも?
この仁王像は神仏分離令後に一度、別当寺院だった真照寺に移され、廃仏毀釈運動が鎮まった後に戻されたようです。
もっと彫刻の写真を撮りたかったけれど、あいにくの雨で光が足りないのか、なかなかピントが合わず💦
もっと立体的で精緻な彫刻なのですが……残念な仕上がりになってしまいましたm(_ _)m
夕方だし、雨だし、光足りないし……昼に行ってじっくり撮影しておけばよかった!(後悔先に立たず)
隋神門から見た社殿。内部では氏子の皆さんが、神輿と長獅子を待っていました。本殿は廃仏毀釈によってとり壊された明王堂の部材を用いて建立したそう。
スマホで社殿全体を撮影。御神紋は、三春大神宮も同じく三春藩主秋田家の家紋である「檜扇に違い鷲の羽」。
扁額はかなり新しい感じ?
神楽殿にも提灯が吊るされていました
氏子の皆さんに「長獅子が神社前に来るのは、だいたい7時30分頃」「太鼓の音が聴こえてくるから分かる」と教えていただいたわたしは、ちょっと早めの夕食を取ることにして、勝手知ったるヨークベニマル三春町店へと向かったのでした(イートインでカップ麺をすすりました!)
〈三春町への旅2024〉④につづきます♪