喜びの散弾銃を放て。
お久しぶりに投稿する気がするね。四藤です。
今日は久々にライブに行ったのでライブの話を。小さい頃からピアノをやったり楽器をやったりしていて、幼いころから「音楽」はとても身近な存在でした。音楽(特に歌が持つ力)のいいところは、"三分間で人を救える"というところだと思う。言葉とメロディが一緒になる時、それは単なる1+1ではなくなる。喜怒哀楽、どんな感情でも寄り添う歌やメロディがあって、私はそれらに随分助けてもらってきました。
今日は(というかもう昨日の日付になってしまうのだけれど)ユニゾンスクエアガーデンのライブに遊びにいってきた。いやあ、すごいライブでした。私がユニゾンのライブに行ったのは2015年の7月に行われた武道館ライブなので、およそ三年ぶりということになる。
というわけでライブ自体はものすごく久々な感じがしたのだが、その間もユニゾンから離れていたわけではない。怒りが湧いてくる時には"Cheap Cheap Endroll"を聞いて嫌いなヤツは「記載から除外」してきたし、どうしても悲しい夜には"mix juiceのいうとおり"を聞いて「昨日の理想が今日砕けちゃっても」そんな毎日が全部愛しいと思って抱きしめてきた。折に触れて、ユニゾンには助けられてきたのである。
なのでライブが始まった瞬間、久しぶりだと思う間もなく「ああ、これだ」と思った。まったく離れた気がしなかった。まるで二か月前くらいにでもライブに来てたんじゃないかと思うくらい、すっと音楽が体の中に入った。頭の中に「楽しい」という文字が浮かぶ。そうだ、音楽ってものすごく楽しいんだ、ということをユニゾンはいつでも教えてくれる。
曲を聴きながら、体を動かしながら、ユニゾンが振りまく喜びについてずっと考えていた。
それは、一方通行の喜びじゃあない。見ている側も喜び、演者側も喜ぶという、双方向的な喜びだ。「俺らも楽しむから、お前らも勝手に楽しめ」みたいなスタンス。いい意味で双方が自立している。変な馴れ合いも傷の舐めあいもない。そこには演者側の「楽しめる責任」と観客側の「楽しむためのルール」があって、それをちゃんと守ることでお互いが楽しい!と思っている。その絶妙な距離感が心地いい。
「喜び」を享受しているだけじゃ、それは喜びにはなりえないのかもしれない。自分の手でつかみにいくからこそ、喜びになるのだ。人は知らないうちに責任を放棄して、幸せを手に入れようとしがちだけれど、そうやって手に入れた幸せに「喜び」は見いだせるのか。「楽」と「喜び」は似ているようで違うところにあるな、とライブで気付かされる。
こんな難しいことを曲を聴きながら考えて、でも、それを思考から放り出した。
こんなこと考えてた、なんて演者に知られたら、笑われちゃうだろうな。
思考を投げ捨てていいくらい、手放しで楽しいと思えるライブだった。それだけは間違いない。
銃を構えるとしたら、それは人を傷つけるためではなく、この世界が楽しくなるような弾であってほしい。だから、ユニゾンは私にとって憧れの狙撃手だ。ライブを目撃した人間を捕まえて離さない。一人残らず、「楽しさ」で撃ち殺す。
私も打つなら、喜びがいい。