「ごんぎつね」と子供の国語力についての覚書
随分更新が滞っておりました。タイトル画像はミッドジャーニーというAIに描画させた「日本の農村の子狐」です。とうとうAIの自動生成イラストがそこそこ使えるレベルになりました。驚きました。
「ごんぎつね」の読めない小学生という問題提起
先日、子供の国語力が壊滅的に低下しているという記事が配信され、話題になっていました。
私は小学生の頃、病気がちであまり学校に通えず小児病棟にお世話になっていました。「ごんぎつね」も授業で習った記憶はなく、学校に投稿できた日にまとめていきなりテストを受けて修了というありさまでした。
初見で読んだテキストを設問どおりに回答してそれで終わり、という授業なしのスタイルが定着していたのですが、この「ごんぎつね」に関しては得も言われぬ違和感のようなものが残っていました。
子どもなりに感じたことは、「動物が人間の狩りの仕掛けにいたずらをするのは至極当然である」「病床の母が死去したことに対して狐のごんの行動は因果関係はない」ということです。そして「動物をまるで人間の子供のような内面を持ったキャラクターとして描き、子供に読ませるのはどういう大人の意図なのだろうか」ということにずいぶん困惑しました。
この作品にたいして子供は「ごん」への感情移入を求められます。結局のところ「大人の事情を汲まずにいたずらをするのはやめよう」「いけないことをしたらあやまろう」「友達をつくりたいのにこそこそするのはやめよう」などという「教訓」を読み取る指導をされるのだろう、と感じました。(授業に出ていないので、テストの流れからの想像なのですが。)それ以上の悲哀を感じるには大人の感性を必要とします。
作品への言語化できない感想をどうすればいいのか?
当時は子供だったので、それらを言語化できずいいようのない違和感を抱えてしばらくもやもやと過ごしていたのですが、同じようにもやもやした子供は結構いたのではいかと思っています。やさしい子供は「ごんはかわいそう、ごんを撃ってしまった人間もかわいそう」という感想をすぐ出せるとおもうのですが、私はそうではなかった。
「右派には国旗や街宣車などで崇拝するシンボルがあるのに、左派にはそういうシンボルがないので、キャンペーンに不利ではないか」というようなことを大人に話して気持ち悪がられるような空気の読めない子供だったのです。
「ごんぎつね」が読めない子のなかに「意図通りによむ意味が分からないて困惑している子」が含まれている可能性があります。そのばあい、もやもやした言語化できない言説を拙いなりに言語化することが目標なのではないかと思うのです。
国語力以前のデリケートな問題
私たち日本の大人と、子供は一見いろいろなものを言っているようで実は誰かの受け売りということが往々にしてあります。「つまり、なにがいいたいの?」というとひどく幼稚なクレームを出してくる大人が結構沢山います。これはどういうことなのか。私はこれは「人に話をきいてもらう経験の欠如」に原因の一つがあると思っています。
本当に感じたことはゆっくりと、ためらいがちにしか発語されず、うまく話せないのが当然なのです。大人になってから読んだのですがラカンが「本当にいいたいことは言おうとした途端空中に霧散する」というようなことを言っていたので「なんだ、みんなそうだったのか」と妙に納得した覚えがあります。「ごんぎつね」に得体のしれない違和感を感じた子供は1か月やそこらでうまくこれを言葉にできないはずです。畢竟、なんとなく授業の流れで誘導される作品鑑賞の主要説に同調していかざるを得ないのではないかと思います。物語としての読み方を踏まえたうえで、自分はこう批判する、というやり方ができる子供はそんなに多くない。それができれば大人です。求めるレベルが非常に高い。ですから「うまく言えない」気持ちが先に来てしまってもおかしくないのです。
「読めない」という前に
子どもの語彙はとぼしく、感情表現についても「大人の求める子供」であるかどうかを敏感に察知して意見を差し控えることも多いと考えます。そういう子が「読めている」状態に持っていくことが国語指導のひとつの目標ではあると思うのですが、「うまく言えない」状態のなかで自分の言葉を探している子供もいるはずです。良い点を取ることができる子供でも、あんがい自分のオリジナルな意見をきれいな流れで表出できないことはあり得ます。逆にすらすら模範解答を出せる子供は「借り物の言葉」であることも考え得る。ですから、私の過去のこども時代と自分の子供を見ていて感じることは「うまく話せない、読めていないように見える子供の話を聞く」そして「言葉が出ないなら断片的な単語でもいいのでオウム返しする」ということしか国語力に繋がらないのではないかということです。大人になるときに自分の言葉で話すことができ、人の言うことを正確に捉えられる国語力というのは、作品鑑賞以前の習慣によって養うしかないと思うのです。
大人も子供もよくわからないという話をそのまましよう
これは、私の提案なのですが、言語というのは口頭あるいは文書だけでなく、ダンスや映像、デザインなどすべてのメッセージ性のあるものを含みます。すぐに相手の意図を読み取れる人とそうでない人には大きな差があります。しかしながら、「わからない」という判断保留の話をすることは可能であり、「わからないなりにこう感じた」という言語化するトレーニングをするということも、とりわけ子供の日本語能力の向上に必要なのではないかと思うのです。