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周りの友達について反省をした

僕の今の友達は、オトナになってから仲良くなったひとがほとんど、というかそれしかいない。

ある時期に僕は、周りの環境や昔の友人がすごく鬱陶しいものだと思って、ある程度連絡していないひとは、バッサリと切り捨てていた(ひどいひと)。いや、“切り捨てる”と表現したが、もはや連絡が無い時点で“僕が切り捨てられた存在”だったのだろう。


道具の事で言えば、1年間使わなかったものはこの先も使うことは少ないか、もしくはないだろうと言われる。僕の場合3ヶ月くらいでそれを考える場合があるのだが、“環境が変わると人間も変わっていく”から、そうやってしている。

3ヶ月といえば1シーズン。だいたいの目安だが、3ヶ月でひとつの季節が終わるんだ、と考える。実際そうなんだけど。

面白いのが、気温や環境で、使う道具ってずいぶんと変わるんだよね。例えば夏場は暖かいものを食べたり飲んだりすることは少なくなる。土鍋やヤカンとかポットは使用頻度が少なくなるわけだ。
逆に冬は暖かいものが食べ飲みしたくなるから、夏場に麦茶を入れていた容器なんかはあんまり使わなくなるわけだ。あとは、おばあちゃん家に行った時なんかに、ガラスの器にそうめんが涼しげに入っているあの器。あれも使わなくなる。
扇風機とかうちわ、湯たんぽやカイロなんかも季節的に使わなくなるものだ。


話は変わって、僕の服の話。
僕は外国に行ったことは無いが、日本の場合だと、肌寒いかすごく寒い時間の方がやや多い。だから薄手の長袖シャツを持っていると頻度が高めで使い勝手が良いと僕は考えた。実際に春と秋はそれで過ごす。もう少し寒ければ、他に暖かいものを着れば良いだけの話で、ものすごい寒いと、胸ポケットにカイロなんかを忍ばせる。使い捨てでないカイロは暖かいし、燃料も安くて経済的だから重宝している。

「僕は着ないのに持っている」のが嫌で、極寒の冬が終わってしまえばフカフカのアウターは売ってしまう。多少暖かい時期も長いわけで、すごく暖かいものは邪魔になる場合がある。だからそれも、ぽいっとしてしまおうというのが僕の考えである。


ちょっと考えを戻して。
“ひと”というものも、環境や働く場所やよく行くお店が変われば心境や考えが変わるのはかなり早い。いつもだいたい毎日接して、やりとりしていた相手でも少し時間が空いたりすると、声をかけたり話をすることすら無くなっていく。
みんな、その点をどう考えているんだろうか?

僕は、しばらく会っていなくても、最近はマメにメールしてみたりするのだが、それは“親しい友人がまだ少ない”からであって、いくらかたくさんの友人がいるひとは、そんなことをしている時間すら無いのだろう。
それこそカイロみたいに、とあるシーズンだけに現れたりして、時々にしか会わない友達なんかもいたりするのだろうか?
たぶんそうなのかな。
短い間隔で会っているひとだけが友達じゃないし、自分に連絡をくれる人だけが友達でもない。
もう少し、“人”という存在を寛容に見られたらなぁ。と思って反省した。


あの時の、あの友人“だった”ひとは、今元気なんだろうか?


そう考えられているだけで幸せ者だな。と。
そんなことをふと考えながら、秋の涼しい風が吹く空の下で、僕は歩いたのだった。


気にかけて声かけて、お出かけ前に鍵かけて。これからの僕は。

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