『自分の気持ちを食べられているんじゃないか?』
食べ物をひとにあげるときの気持ちって、自分がそのひとの事をどう思っているのかがわかりやすい。仕事柄、自分以外のひとに食事を作ることが多いのだが、「食事」というものの作り方というのは、そのひとへの気持ちが「どストレート」に表れるものだと感じることが多々ある。
僕は居酒屋のキッチンで働いているゆえに、お客さんに対しての食事はもちろん、共に働いているスタッフにも賄いというかたちで、食事を作ることが、ほとんど毎日ある。
それというのは、一人暮らしの僕にとってはかなりの「特権」であり、求めてもいただけない機会だ。すごく感謝している。
そう思っているためだろうか、毎回毎回、ちゃんと考えて、「ちゃんと美味しい」食事にしてあげようと考えながら作っている。
とはいえそれは、さほど簡単なことではない。極々「限られた材料」を使うことによって作ることを求められているからだ。(僕の職場ではお客さんに出すための材料をたくさん使って賄いを作るのはあまり良くない、と暗黙のルールがある。)
高価な材料(特別なものではないが“ちゃんとした素材”という意味で)を使ってレシピ通りに料理すれば、美味しいものを作るのにさほど苦労することはない。お客さんに出さない部分の食材の端っこを使って、いかに美味しいものを作るかが、賄いの面白いところだ。“端っこ”と言っても、ゴミのようなものを利用しているわけではない。それもそうだし、お客さんに出すようなお肉なども使っていい。必要以上に価格の高い材料を「好きなだけ使わないように」という意味での“端っこ”だ。
で、作り方はさておき、作る時や食べる時の「気持ち」が僕は面白いと思った。
たまに、アルバイトの学生達がいない日があり、そういう日は店長と僕の2人分か、もしくは自分の分だけを作ることになる。お店の忙しさゆえに作るタイミングが良くない場合があって、自分だけの分をちゃちゃっと作ることがあるのだ。
そうなると酷いもんで、なんだかゴミのような(笑)ものを食べていることがある。自分でも食べながら、「コレを食べているところを見られると恥ずかしいな。」と思っていることがあるほどだ。
でも、味は良い(と思っている)。マズイものをわざわざ作ってまでして、お腹を満たしたくはない。
面白いところはそこで、自分の舌を満足させるのは、見てくれの悪い食事でも良いのだが、複数人が自分の作る料理を食べる場合、「料理の見た目と味をかなり気にして作っている」という点だ。
ドラマや映画で、一人暮らしの女の子が彼氏に料理を作る時、少し緊張したりして作るシーンがあるが、アレの気持ちが少しわかる気がする。
「美味しいと感じて欲しい」
「食事を楽しんで欲しい」
という願いには、食べてくれるひとに対しての好意や、大切だと思っている気持ちがそのまま、どストレートに出るんだなと、そう思った。
しかし、それと言うのは。
逆に言えば、少しでも嫌いだと思っていたり、信頼に欠けていたりするひとが相手だと、「このひとには自分の料理を食べられたくないな。」と、どストレートに思うという事でもある。
例えば、自分の親切や感謝の気持ちで買ってきたおやつを職場に持ってきたとする。目的のひとに差し上げたすぐ側から手を伸ばして「ちょっとちょうだい。」と、その誰かあまり好きでないひとにひとつ取られるとどうだろうか?
“たったひとつ”なのに、ずいぶんとモヤのかかった気持ちになってしまう。
それはまだ買ってきたものだから良いものの、作って来たものを食べられるというのは気持ちの悪いことこの上ない。
…
……
いや、嫌いなひととか苦手なひとのことなんか、わざわざ考えなくていいか。
ポイントはそこではなくて!
作る食事というのは、「自分の気持ちを食べられているんじゃないか?」とふと考えた、というだけの話である。
つまり、それというのは、上記にあるような部屋に呼んで食事を提供してあげようとする女の子って、爆裂にかわいいという話でもある。
優しい味の追求をしよう、これからの僕は。
お鍋の季節についても、また今度考えよう。