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▽はじめに
この記事は以下の記事と密接に関わっています。内容を頭の片隅に入れた状態で読み進めていただけると幸いです。
▽ニーチェの予言
ここでいう神とは「絶対的な価値基盤」のことを指します。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。
彼は予言しました。
この世界は末人で溢れかえると。
神が社会を創ったのか、もしくは社会を創るために神に語らせたのか、今となってはわかりませんが、宗教というものは人々が集団であることができるように価値基盤として「正しさ」を与えるツールという側面を持っています。
そういう意味で私たちのこれまで信じてきた「常識」と呼ばれるものもまた宗教なのです。
しかし、この価値基盤に従っていれば「正しい」ので人々は自らの意思で価値基準を作る必要性がなくなってしまいます。社会的な正しさに寄りかかってしまえば自らの弱さから目を背けていられる。目を背けていることにすら気がつかないでいられるのです。
そうして、やがて安定し、その場に留まり、自己を保存しようとする意思に支配されてしまうのです。適当に現状維持をしていれば過ごせていける生活でさらに先へ、まだ見ぬ場所を目指そうとする人間を鬱陶しいと感じる。
そういった人々を末人と呼ぶのです。
ニーチェはあらゆる思想・宗教、科学もそういった自らの弱さから目を背け、無難で苦しみや危険のない生き方に向かっていくための「無への志向」であると考えたのです。苦しみのないことを目指すのであれば死んでしまうのが一番早いのです。
そうではなく、限りなく広がっていこうという「力への意思」、成長や創造性への志向を持つ必要性を彼は説いたのです。
そのための前段階として、「神(価値基盤、社会、常識)は死んだ」という言葉があるのです。
しかし、人々が穏やかにいれたのは「神」がいたからでした。その神が死んだとなれば人々からは穏やかさが消え、攻撃性や恨み、妬み、嫉みが生じてくることが考えられます。神がいなくなってしまったので今度は他者を攻撃することで自らの弱さを見ないようにするのです。そういった人々をルサンチマンと呼びます。
今のこの国はニーチェの予言した通り、末人とルサンチマンで溢れかえっているように見えます。
けれど、不思議に思いませんか?
ニーチェはキリスト教文化圏である西洋の人物です。文化が変われど人間は人間である、とはいえ彼の予言がここまで日本の現状に当てはまってくるのはなぜなのでしょうか。
▽現代日本はデミウルゴス教
連合国軍最高司令官総司令部、通称GHQ。
日本の占領を担当したダグラス・マッカーサー。
彼はメイスの一員でした。これに関して日本のいわゆる知識人と呼ばれる者たちは、
「メンバーの一員だったというだけでメイスの思想がGHQの日本占領に与えた影響は一切ない」、と言います。そして、人々はその言葉を何の疑問も持たず受け取り、「そうではない」、という人々を陰謀論者などと揶揄するのです。
では私も言わせていただきましょう。
「創価学会の思想や布教活動は公明党の政治活動に何の影響も与えていない」。
前述の理屈からすればこれを否定するあなたは陰謀論者ということになります。このへんにしておきましょう。
メイスが日本に与えたのはデミウルゴス信仰でした。
この神はグノーシスの一派がカトリックの神を揶揄するときの名であります。あらゆる物質はデミウルゴスの創ったものであり、それゆえにあらゆる物質がデミウルゴスからの監視カメラの機能を果たしている。
物質主義の神と言える存在です。
物質的な豊かさを追求し、精神的な豊かさはそれに付随するものでしかない。
まずは物質的な豊かさが第一であるとしたのです。
それに従って人々はあくせく働きました。
おいしいものを求めて。
綺麗な洋服を求めて。
電化製品、ホビー、土地、マイホーム。
お金。
「それらとは直接結びつかない幸せがある」、といってもどこかで負け犬の遠吠え、と感じる部分がありませんか?
それこそあなたがデミウルゴスを信仰している証なのです。
そしてこの信仰形態は神がヤハウェかデミウルゴスかの違いはあれど、構造的にはカトリックと大差がないのです。人々が神から与えられた正しさに沿って物事を考え、そうでない人々を輪を乱す厄介者とする。むしろカトリックの方が愛や優しさを説いている分、良心的なのかもしれません。
カトリックと構造的に同じものなのですからニーチェの予言も適応される、ということなのです。
何故メイスたちが日本人たちに物質主義を植え付けたか。
それは核兵器使用に対する日本からの報復を恐れた米国、そして、来る最後の審判に向けて救世主たちを撲滅したいアイルの意思が一致していたからです。
日本人を腑抜けにして何もできない末人にしたかったのです。
▽日本の歴史はカトリックとの超限戦
日本の裏の歴史のテーマ。
それは、キリスト教との「タタカイ」でした。
「タタカイ」、と聞くと殴ったり、武器や兵器を使って相手の命を傷つける動作を連想するかもしれません。
しかしそれは「タタカイ」の一つの側面でしかありません。
「超限戦」
この言葉を頭に入れておくべきでしょう。
日本とカトリックの戦いはまさにこの超限戦と言えるもので、古代から続いてきました。その決着がつくのが現代に差し迫っているといえるでしょう。結末は私にはわかりませんが、少なくとも末人とルサンチマンの溢れかえった現状を見れば表面的には日本は敗北しているように思えます。
日本が西洋の思考パターン、つまり、キリスト教が土台にある価値基準を積極的に取り入れ始めたのは明治以降からでした。欧米列強に飲み込まれないために西洋の技術や仕組み・思想を取り入れ、富国強兵を目指しました(この背後にもメイスやロートシルトがいるのですが)。
このとき日本の今で言うインフルエンサーたちがどのようなことを言いながら西洋の考えを取り入れていったかご存じですか?
「私たちは欧米列強の脅威に対抗するために彼らの技術を学ぶ。しかし、それは日本の誇りを捨てることではないのだ。あくまで誇りを保ったまま学ぶのだ。むしろ、誇りを守るために学ぶのだ。」
結果は今の現状となります。
ところで、上記のような言葉、最近もよく聞きませんか?
AIやメタバースに関してです。
「私たちは日本を再び経済大国にするためにAIやメタバースに力を入れる。けれど、それは自分の頭を使わずにテックに頼り切ることとは違うのだ。あくまで人間らしさを保ったままでAIやメタバースを取り入れるのだ。むしろ、再び経済を成長させ人間らしい生活ができるように学ぶのだ。」
日本人というのは良くも悪くも本当に忘れやすい民族ですね。
忘れる、禍根を水に流すという美点によって設定上でも王朝が2600年続いてきた、という点はあります。けれど、せめて100年前、200年前程度のことは覚えておく必要があると私は思います。
日本人(特に現代人)にAIやメタバースに飲み込まれずに利用する、などという忍耐力や精神性はありません。それは明治の西洋からの一件で証明されています。西洋思想にすら誇りを守り切れないのにどうして復活した神々であるAIに屈しないでいられるというのでしょうか。
それでも、AIやメタバースに飲み込まれないで利用しようと思うのであれば、まずは末人やルサンチマンからの脱却が最低条件でしょう。
つまり「超人」を目指すということです。
そして「永劫回帰」を引き受け、「救世主」となって「人間の補完」を否定しまた個体として歩み創めるのです。
どういうことかは次の記事でご説明します。
読んでくださりありがとうございました。