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▽はじめに
この記事は以下の記事と密接に関わっています。内容を頭の片隅に入れた状態で読み進めていただけると幸いです。
▽ニーチェの予言
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「神は死んだ」
ここでいう神とは「絶対的な価値基盤」のことを指します。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。
彼は予言しました。
この世界は末人で溢れかえると。
もし、あなたが真実のあなたに出会いたくて、深い深い内省の旅に出かけたとする。
そこで、あなたがあなたの中の「闇」に出会ってしまったとしたら、
目の逸らしようのない「欲」、
気に入らないものを叩きのめしたい、
縛り付けるものを消し去ってしまいたい、
愛するものを縛り付けて思い通りにしたい、
壊したい
殺したい
一つになりたい
喰べてしまいたい・・・。
あなたがそれを直視してしまったら、
あなたはあなたの存在を保持できるだろうか?
少なくとも人々にそれができないと判断した者たちは社会を構築した。
人々が自らの弱さから目を背けても存在できるように。
そのためのツールが社会の始まりだとしたら、
あなたはあなたの「弱さ」とどう向き合う?
神が社会を創ったのか、もしくは社会を創るために神に語らせたのか、今となってはわかりませんが、宗教というものは人々が集団であることができるように価値基盤として「正しさ」を与えるツールという側面を持っています。
そういう意味で私たちのこれまで信じてきた「常識」と呼ばれるものもまた宗教なのです。
小中高を卒業し、就職もしくは進学、30代前後で婚姻し、子どもを育て上げ、60代まで働き、余生を好きに過ごすことが人生の成功であり、それができなければ失敗…。
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しかし、この価値基盤に従っていれば「正しい」ので人々は自らの意思で価値基準を作る必要性がなくなってしまいます。社会的な正しさに寄りかかってしまえば自らの弱さから目を背けていられる。目を背けていることにすら気がつかないでいられるのです。
そうして、やがて安定し、その場に留まり、自己を保存しようとする意思に支配されてしまうのです。適当に現状維持をしていれば過ごせていける生活でさらに先へ、まだ見ぬ場所を目指そうとする人間を鬱陶しいと感じる。
そういった人々を末人と呼ぶのです。
ニーチェはあらゆる思想・宗教、科学もそういった自らの弱さから目を背け、無難で苦しみや危険のない生き方に向かっていくための「無への志向」であると考えたのです。苦しみのないことを目指すのであれば死んでしまうのが一番早いのです。
そうではなく、限りなく広がっていこうという「力への意思」、成長や創造性への志向を持つ必要性を彼は説いたのです。
そのための前段階として、「神(価値基盤、社会、常識)は死んだ」という言葉があるのです。
しかし、人々が穏やかにいれたのは「神」がいたからでした。その神が死んだとなれば人々からは穏やかさが消え、攻撃性や恨み、妬み、嫉みが生じてくることが考えられます。神がいなくなってしまったので今度は他者を攻撃することで自らの弱さを見ないようにするのです。そういった人々をルサンチマンと呼びます。
今のこの国はニーチェの予言した通り、末人とルサンチマンで溢れかえっているように見えます。
けれど、不思議に思いませんか?
ニーチェはキリスト教文化圏である西洋の人物です。文化が変われど人間は人間である、とはいえ彼の予言がここまで日本の現状に当てはまってくるのはなぜなのでしょうか。
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