「裏」タケミナカタ神話「裏」②伊勢津彦と[氏]という鎖
▼はじめに
タケミナカタ神話の裏側を覗いていくシリーズ、第ニ回目はタケミナカタと同一視されることもある「伊勢津彦神(イセツヒコノカミ)」という存在についてフォーカスしていき、その中で~氏、~族という「鎖」も解いていけたらと考えています
※第一回はこちらから。
※下記の記事は「表」になります。「表」を見なくてもわかるようにこの記事以降の「裏」を書いていくつもりですが私個人としては見ていただくことをお勧めします。
▼伊勢津彦神の概要
上記Wikipediaの内容を簡略化してお伝えします。
伊勢津彦神とは伊勢国風土記や播磨国風土記等に登場する神で、伊和大神(大国主の別名とされる)の子です。
別名、出雲建子命(イズモタケコノミコト)、天櫛玉命(アマノクシタマノミコト)。
神倭磐余彦(神武天皇)の東征の際に元々伊勢に鎮座していた神として描かれます。
神武天皇から派遣された天日別命から国を譲るように言われるも、これを拒みます。
そこで天日別命が軍を遣わすとこれに恐れて国を譲ることを承諾します。
天日別命は伊勢津彦がその場から去ったことをどう判断するかと問うと、伊勢津彦は「風を起こして潮を上げ、波に乗って東へ去る。それが自分が退いた合図である」、そう言いました。
約束通り伊勢津彦はその場から去ります。
そして、明け渡された伊勢の地には天日別命が伊勢国造として赴任することになったといいます。
父親が伊和大神(大国主)であることや、天孫の使者と争い東国に逃げる(後世では信濃に逃れたという伝承もある)という一致点からタケミナカタと同一視される、というわけです。事実、本居宣長もこの伊勢津彦神をタケミナカタと考えていました。
▼伊勢津彦=天目一箇神
元々伊勢に鎮座してしていたという伊勢津彦神。この神の神格は「風神」、「鍛冶神」です。風神と鍛冶神の組み合わせは古代の製鉄が風通しの良い場所で行われる必要性があったため、と考えられます。
「風神」、「鍛冶神」、「元々伊勢に鎮座していた」、というキーワードに該当する神がもう一柱存在します。それは、天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)、という神です。この神は天津彦根命(アマツヒコネノミコト)の子で別名を天津麻羅(アマツマラ)といいます。「鍛冶神」の神格を持ち、一目連という片目の龍神とも同一視されます。この一目連は「風神」の神格を持ちます。そして、古語拾遺によれば、「伊勢に天目一箇神を祖とする忌部氏があった」とされます。
(天津彦根、天目一箇、一目連等が祀られています)
▼忌部氏の祖神、天日鷲命
ここで忌部氏の動向をまとめます。神武東征において忌部氏の祖神、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)は神武天皇を導いています。しかし、忌部の祖神の一柱である天目一箇神を伊勢津彦とすると、神武側についた忌部と追いやられた忌部がいることになります。そして、これはそのままそう受け取ってよいでしょう。先代旧事本紀では天日鷲命が伊勢国造になったことが書かれますが、伊勢国風土記の天日別命も伊勢国造に赴任していることから見て、
天日鷲命=天日別命(神武側についた忌部)
天目一箇神=伊勢津彦神(追いやられた忌部)
この構図になると考え、元々は同一神であると考えます。そして、分かれる前の大本の神は饒速日になると考えています。
▼饒速日に関して
饒速日命(ニギハヤヒのミコト)。神武東征に際して天神の子孫の証である天羽々矢と歩靫を持っていた神で大和の元々の統治者であったとされます。同じく天羽々矢と歩靫を持っていた神武天皇に統治権を譲ります(長脛彦は戦っていましたが)。先代旧事本紀での別名を、
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
といいます。
伊勢津彦神の別名は天櫛玉命。「櫛玉」の称号を共通にしています。
天目一箇神の別名に天照眞良建雄命(アマテラスマスラタケオ)、というものがあります。「天照」の称号を共通にしています。
そして饒速日は物部氏の祖ともされます。物部は鍛冶にも関わっていましたから、やはり繋がってくるのです。
そしてこの繋がりは諏訪地方で回答として提示されます。
▼諏訪の伝承
・風間神社
伊勢津彦神が信濃へ逃れたという話があることは前述しました。
この伝承を示すような神社が存在します。
長野県長野市の「風間神社」です。
主祭神は級長津彦命ですが伊勢津彦神も祀られています。というより級長津彦命も風神ですから同じなのでは?と思います。級長津彦命は元寇の際、神風を起こした存在であるという伝承とともに伊勢神宮の風日祈宮に祀られています。そして諏訪大社の伝承にも神風を起こしたのは諏訪大明神である、というものがあります。伊勢津彦が級長津彦命で諏訪大明神であるとすれば全部辻褄が合ってしまいますね。
この風間神社の庄司は風間氏。諏訪氏の庶流で元は矢島氏であったそうです。矢島氏は諏訪の神官家、「権祝(ごんのほうり)」でもありますね(庶流とのことなので詳しい事情までは精査できていませんが)。
・片倉、物部守屋の末裔
「藤澤村誌(明治10年4月上)」では物部氏滅亡の時、信濃国伊奈の藤澤に物部守屋の子息たちが逃げてきて住み着いたことが書かれます。その他の書物や伝承にも物部守屋の子孫たちが信濃まで逃れてきたことが伝えられますが、その中で非常に興味深いものがあります。そして、それこそが今回の回答に繋がるものです。それは明治36年3月に長野県知事あてに提出された「村社守屋本務社由緒取調書」の中の「古老伝」です。藤澤に逃れてきた守屋の子孫を称する片倉氏のまとめたもので、そこには
天目一箇神末裔作で物部守屋の佩剣と伝わる一振りの宝剣を守屋神社の石祠の石室に納めている、というのです。
そもそもですが、
物部守屋の本名は物部弓削守屋。弓削は母親からのもので、弓削氏の祖神は天日鷲命になります。つまり守屋は忌部の縁者でもあり、伊勢津彦も最終的に物部守屋に繋がってくる、ということです。
▼結論
・伊勢津彦神=天目一箇神で追いやられた忌部氏を象徴している。
・神武天皇側についた忌部は天日鷲命=天日別命で象徴される。
・追いやられた側も追いやった側も元々同じ一族の神という点で同一の存在といえ、別れる前は饒速日という神であった。
・これらは末裔が科野へ逃れたこと、天目一箇の一族作の剣を所持していること、母の家系が天日鷲から始まっているという要素から物部守屋の一族を象徴する物語である。
・伊勢津彦神は出自とエピソードの共通性からタケミナカタと同一視される。
故に
諏訪大明神∋建御名方命∋物部守屋(伊勢津彦神=天目一箇)∈饒速日命
というような関係になるでしょうか。
▼最後に
ここまでの話と関係のない脱線話に思えるかもしれませんが、最後に~族、~氏、という「鎖」を解かせてください。きちんと今後に繋がる話になります。
例えば平氏と源氏に関して。この両家は元をたどれば天皇家となります。そして、天皇家はこのころには藤原氏の血が多分に入り込んでいます。一方で初期天皇家の系譜を見れば出雲系の血が多分に入ってきています。
このとき、平氏の男性と源氏の女性が婚姻して生まれた子は一体何氏になるでしょうか?
日本は基本的に豪族同士、家同士を婚姻によって関係を深めていった国です。その中には名目上は~氏と名乗り、その氏族として行動していても、何か違和感がある行動をしている人物が多くいます。
上記の平氏と源氏の例で言えば、名目上平家と名乗ったとしても、個人的なアイデンティティを源氏であったり、藤原や出雲におくことは十分ありえるでしょう?。
氏族だけで人を判断することはできない、ということです。
あたりまえですよね?でも、これが歴史や政治、宗教が絡んでくると当り前じゃなくなってきてしまうのですよ。
あなたは何のために勉強をしていますか?
私にとって勉強の意義は固定観念から解放されることです。
そうしたら、曇りなき眼で相手を判断できるでしょう?
固定観念を強固にするための勉強だとしたら、
なおかつそれが差別に繋がるのなら、
勉強なんてしない方がマシなのかもしれませんね。
この話をした理由。
それは、物部であり、鴨であり、秦であり、中臣である者たちがいる、ということです。
そのお話はあらためて、ということで。
ご視聴ありがとうございました!
続く。
※タイトル画は下記からお借りしました。
素晴らしい絵を描いていらっしゃるので是非ご覧になってください!
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