最新作『九羅夏』はもともと能村登四郎の句「裏返るさびしさ海月くり返す」と、ある体験が化合して発生した詩から始まった、詩と俳句のコラボレーションであった。
今回は無粋ながらその成立過程について日記から考えていきたいと思う。というのも、この詩の発生と成立の間に作者自身としても理解しきれない所が多く、機会を設けて分析していきたいのである。興味のない方は是非とも無視されたし。
二〇二三年六月一日木曜日
月の初めに、その月の俳句を歳時記から引用するのは度々ある。この頃は「舟」をモチーフにした詩作を試みていた。
二〇二三年六月四日日曜日
吉増剛造「石巻ハ、ハジメテノ、紙ノ声、……」が手元に届いた喜びから「巨象たち、校庭を叩く」へと思考が滲み出し、吉増剛造の様々な詩を巡りつつ自らの詩を探しているらしい。「舟」のモチーフに「馬」をぶつけている。
二〇二三年六月五日月曜日
この詩の予感は次の日に記載されている詩の習作のもの。
二〇二三年六月六日火曜日
若干、時間の順序がわかりづらい。おそらく、五日の日記を書いたのが五日零時ごろ。その後に布団の中でできた詩の習作について六日零時ごろに書いていると思われる。
那珂太郎は三態全て素晴らしかったが、特に初期詩篇はあの豊穣な世界に酔いしれた。引用部分については非常に励まされた。
最後に少しの天沢退二郎。
二〇二三年六月七日水曜日
まだ「舟」に固執している。
二〇二三年六月十日土曜日
二〇二三年六月十一日日曜日
『Poetic Parade』所収の自作詩篇「窪、夢の野の、の、の」には「矢」が目立ったモチーフとして出てくる。その「又も」なのだ。
二〇二三年六月十二日月曜日
読書録によると、この次の日に山尾悠子『歪み真珠』を読み終えている。「みちをしへ」とはハンミョウの別名。
二〇二三年六月十三日火曜日
二〇二三年六月十六日金曜日
中学生時の詩にはよく「稚い(いとけない)」を多用していた。
『九羅夏』において榎本櫻湖の影響は無視できないほど大きい。読書録によると、榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』は六月二十二日に読み終わっている。約一ヶ月半に亘る読書であった。
二〇二三年六月十八日日曜日
あれほど飲んだ夜はない。足元がふらつき、夜が明ければこみあげてきたものをぶちまけた。初めてのことであった。が、意識が混濁することはなかった。一度、記憶を失いたい、生の直線上に断裂を与えたい、と思っていたものを。ただ賑やかな談笑の気配が部屋に残っていた。
二〇二三年六月十九日月曜日
ここで榎本櫻湖からの影響が増してきて、『九羅夏』的文体の萌芽が見える。
吉増剛造が出てきた夢はこれが初めてであったかもしれない。向かいの席に座っているのに、私は話しかけることができない。同じ駅で降りて、改札を出ていく吉増剛造を追いかけるようにして私も出る。そして、立ち止まって遠ざかる背中を見つめている。そう、あの京都の夜と同じく。
二〇二三年六月二十二日木曜日
榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』所収「わたしは肥溜め姫」はある私のトラウマと結びつくかもしれないという直感から繰り返し読んでいる詩篇である。
二〇二三年六月二十三日金曜日
二〇二三年六月二十四日土曜日
二〇二三年六月二十六日月曜日
外国語を上手く取り込めないかと努力している形跡が見られる。もっとも、非常に自動筆記的な記述ゆえに意識はしていなかったであろうが。
二〇二三年六月二十八日水曜日
遂に「水母」の文字が現れる。これを書いてから歳時記を開き、能村登四郎の句と出会ったのか。歳時記を開き、能村登四郎の句と出会ってからこれを書いたのか。今ひとつ明瞭ではないのだが、確実にこの時点で「水母」を見たいと思い、海辺を歩こうと思っていたに違いない。そして、次の日、現代詩手帖を確認し、納得と落胆の入り混じった気持ちで私は港を訪れる。そこでの出会いについては次の日の日記、つまりは次回の記事で振り返ることができるだろう。(上)はここまで。