最新作『九羅夏』はもともと能村登四郎の句「裏返るさびしさ海月くり返す」と、ある体験が化合して発生した詩から始まった、詩と俳句のコラボレーションであった。
今回は無粋ながらその成立過程について日記から考えていきたいと思う。というのも、この詩の発生と成立の間に作者自身としても理解しきれない所が多く、機会を設けて分析していきたいのである。興味のない方は是非とも無視されたし。
二〇二三年八月一日火曜日
二〇二三年八月四日金曜日
さんちかの古書市で手に入れた! 本当に、本当に念願が叶って、手に入れたのである。
二〇二三年八月五日土曜日
あの、詩人の声こそが、私の、詩の、バイブレーションを形成した。
この時点で能村登四郎、藤田湘子、池田澄子、山口誓子、相子智恵の部分が完成していた。
二〇二三年八月九日水曜日
涸れていた言語たちが遊び始めた。
山口青邨の部分ができる。
二〇二三年八月十五日火曜日
『九羅夏』を作り、文学フリマ大阪にて配布することを決めた未明。既に山口青邨まではできていたが、そこから書き継いでいく決意。翌日には赤野四羽の部分ができ、残りは髙柳克弘の部分と自作。
二〇二三年八月二十一日月曜日
詩が進まないことへの絶望(今、死が進まない、と予測変換に出たが全くその通りで)。
二〇二三年八月二十二日火曜日
二〇二三年八月二十三日水曜日
意味への傾き、偏り、撚りは私にとって詩の不調に他ならない。
二〇二三年八月二十四日木曜日
私が初めて観た落語は恐らく立川談志「死神」。そしてこちらは確かで、上方落語を初めて観たのは桂米朝「ひとり酒盛」であった。人間国宝、どんな落語をされるのか、と観てみたのだ。画面の中でどんどんと酒を飲んで酔っていく米朝に驚いた。注いだ酒を一口、二口と飲むたびに器の傾斜を変え、呂律が回らなくなっていく。芸の細部が美に変わり、噺の内容が笑いを誘うという名人芸に圧倒されたことを思い出しての記述であろう。
二〇二三年八月二十七日日曜日
膠着状態の「九羅夏」から逃避するかのように、『現代詩手帖1977年5月号』を読んだ。「九羅夏」的文体・傾向には手応えがあったけれども、同じくらい不安があった。放埒なイメージの展開をどうにか音楽的要素で縫合しようとするも、なかなかうまくいかない。また、もし縫合できたところで、この展開の速度と増殖する音は単なる狂人の文章に過ぎないのではないか。一言でいえば、安易な意味ではない「哲学」に欠けているのではないか。その不安の原因を赤瀬川原平が明文化しており、不安解消のヒントを吉増剛造が写真と文章中に散りばめていた。
二〇二三年九月二日土曜日
残り一週間にしてまだ完成していない。逃避行動か、寄席へ行きチケットを購う。
因みに九月と十月どちらも東西交流会に行けた。どれも素晴らしかった。
二〇二三年九月四日月曜日
二〇二三年九月五日火曜日
二〇二三年九月八日金曜日
なおこの時点で完成せず。
二〇二三年九月十二日火曜日
土壇場での完成。粗末な冊子ながら十数部を刷って持っていった。最後の自作ができるには六時間ほどそれだけに集中し、飲食も忘れて取り掛かり漸く完成した。
秋鱧が美味しかった。
二〇二三年九月十三日水曜日
二〇二三年九月十五日金曜日
「九羅夏」から「腐九楼」へ。その兆しを見せて、この無粋な試みを終える。