最新作『九羅夏』はもともと能村登四郎の句「裏返るさびしさ海月くり返す」と、ある体験が化合して発生した詩から始まった、詩と俳句のコラボレーションであった。
今回は無粋ながらその成立過程について日記から考えていきたいと思う。というのも、この詩の発生と成立の間に作者自身としても理解しきれない所が多く、機会を設けて分析していきたいのである。興味のない方は是非とも無視されたし。
二〇二三年六月三十日金曜日
感動が薄れぬうちに書こうとして、雑な文章になっている。とにかく、これで海月との出合い直しがなされた。しかし、これを読んでいるともしかすると歳時記を開いたのは雨の港から帰ってからだったかもしれないと思い始めた。全ては茫々としている。
二〇二三年七月二日日曜日
雨の港の翌日に、浜に出た。ここでの感動は別の記事に書いている。→【随筆】港のクラゲ
詩に向かう歩行が活発になっているのがわかる。
二〇二三年七月四日火曜日
結局、石田波郷新人賞には送らなかった。
「易しい言葉はつまらないね、……。」これは『九羅夏』へ繋がる呟きかもしれない。
二〇二三年七月五日水曜日
二〇二三年七月六日木曜日
寝起きの雑な夢日記。フロイト的悪夢としか言いようがない、されど他者から見れば助平な夢と思うだろう夢。ここで言いたいのは、単なるリビドーのあらわれと断じがたい部分が多々あるということ。セルライトの皺は非常に尻を醜くしていたし、私は尻を触るのではなく足を触ったのである。幾度となく性交の夢は見たことがある。それなのに、絶対にOとの性交の夢は見ないのだ、と誰も得しない情報を。
二〇二三年七月八日土曜日
二〇二三年七月九日日曜日
途中、分かりづらい箇所があった。「祖母が出てきて」とは電話に出るということ。
二〇二三年七月十二日水曜日
兵庫県立美術館にて開催されていたコレクション展「虚実のあわい」は素晴らしい展示であったと熟思う。東影智裕の作品に最も感動した。
二〇二三年七月十五日土曜日
横尾忠則現代美術館「原郷の森」展も『九羅夏』に少なからず影響を与えている。ピカソの遠心力。
二〇二三年七月十八日火曜日
「海月」への意識が尖り始めている。
二〇二三年七月十九日水曜日
二〇二三年七月二十二日土曜日
横尾忠則現代美術館「原郷の森」展と同じような形で影響を受けたのが宮﨑駿監督作品『君たちはどう生きるか』。七月からずっとあの作品について考えている。
ここから、七月二十六日の間に能村登四郎の句とのコラボレーションが一時間ほどで完成する。細かい日にちはわからない。ただ、そこから藤田湘子、池田澄子と三日連続で進んだのは間違いなく、その三作が揃った原稿が二十九日には存在していることから先に述べた日程と思われる。
二〇二三年七月二十六日水曜日
この笑いがこの二ヶ月後、初の寄席へ足を向かせることになる。昔から落語は好きだったが、何故か今頃のめり込んだ。
二〇二三年七月三十日日曜日
二〇二三年七月三十一日月曜日
三十日に『能村登四郎の百句』と『藤田湘子の百句』を読み終えて、どちらにも惹かれていた。しかし、現時点ではもう肚は決まっている。
とにかく、俳句への意識の高まりと『九羅夏』の作品化の加速は比例していた。八月三日になれば四作目、山口青子とのコラボレーションも完成するが、(中)はここまで。