【随筆】幻視直前
スカスカの部屋の隅にポツンと布団を敷き、電気を消して音楽を聴きながら寝る。毎日繰り返している就寝の手順だ。枕元には最大二冊まで本を置いて良いという自分ルールもある。大抵、遅くまで眠れないのだが寝る前の行動をルーチン化しておくことで余計なことを考えないようにしようとしている。
不眠に悩む人間の多くが横になって目を閉じてから、今日のことや明日のことを考えてしまい不安が増幅して眠れなくなるそうだ。私も小学生の頃から明日の六時間目までのことを考えて考えて、嫌になったり楽しみにしたりしていた。今では一ヶ月先のこと、一年先のこと、生涯のことを考えてしまい、抱える不安や恐怖もより高度に、より莫大なものになってきて眠れない。先程書いたルーチン化でも焼け石に水で、いくらか緩和できてもほとんど意味がないほどだ。
だから、音楽を聴く。横になることで動く必要がなくなり、目を瞑ることで視界がなくなり、脳が楽になる。楽になって余った力で自動思考をどんどん進めてしまうのだ。ならば、聴覚はずっと働かせよう。歌ならば歌詞の内容も入ってきて脳も自由に動けまい。ということで、iPhoneから音楽を流しておく。これですっと眠れる時もあるが、逆に音楽を聴くと創作意欲が湧いてきて目が冴える時もあり、そのような時にはいまだ飲んだことのない睡眠導入剤が欲しくなる。私の脳は、私の体は、なんと扱いづらいのだろうと心底嫌になる。
更に不眠に拍車をかけるのが焦燥だ。恥ずかしいことだが、この頃は詩が書けない。発想がないわけではない。しかし、もう文章にリズムが生まれないのだ。「書けないことを気にするな。他のことをやりましょう」などと言われて納得できるような、それでも止まないこの焦燥。
不安と恐怖と焦燥。この三つが組み合わさって、漠然としてかつ莫大な負の感情が布団の上に覆いかぶさってくる。まだ少し暑いにもかかわらず、私は布団を首まで被って、自然、胎児の頃の姿勢を取ることしかできない。
汗か冷や汗かわからない汗。文明の利器から響く音楽。隙間なく部屋を埋め尽くす闇。それでも私は眠れない。
気付けばカーテンの上部から薄明がぼんやりと入ってきていて、ようやく急に襲ってきた眠気に身を任せて眠る。その二時間後にはアラームが鳴るのだ。
九月中旬、暑さが蘇った夜。
やはり眠れない中で詩でも書けないかと、iPhoneに文字を入力し始めたが生まれてくるのは支離滅裂なことを言っている散文ばかり。
『今、頭に浮かんでいるこの映像を、言葉に、言葉に!』
焦ってきた。もう二度と詩が書けないのでは、と怖くなってきた。不安だ、不安。
暗い部屋をiPhoneの画面の光が照らす。近所に投函された新聞の音。カーテンが微かに揺れ、百万ドルの夜景のごく一部が我が家を侵犯する。
『頭に、あるこの、この映像を!』
深夜の明石海峡から漁火を掲げ、ざぶりざぶりと櫂を漕ぎ、ざぶりざぶりと櫂を漕いだまま陸に浮かぶ舟が薄暗い路地を行く。山へ、山へ。ゆったりと動きながらも場面は早くも我が家の前になっていて、ベランダからガラスを通過して廊下を進み、寝室の中へ……。
眼前に火の粉を振り撒く漁火を掲げた舟が浮かんでいて、室内を一周ぐるりと巡ろうとしている。頭の中で、これは想像上の映像なのだとわかっている部分と今まさに部屋に存在しているのではないかと思っている部分が半々に併存していた。一周回りきりかけた瞬間に、想像であると脳がきっぱり断定して舟は消えた。
暫く魂が抜けたように天井を仰いでいたが、段々と脳髄が冷えてゆくような気がした。恐らくは不安定な精神が強い思い込みを起こさせて、想像上の映像を現実のものとしてしまったのだろう。いや、ただただ微睡の中で想像していた映像が夢として現れたのではないか。しかし、もしも、理性と狂気の天秤が少しでも違う重さを示していたら、私はあの舟を完全な現実として、現実を事実として呑み込んでいたのではないだろうか。幻視直前のギリギリを私は目にした。
今、擱筆しようとする九月二十日。幻視について検索すると、視覚を司る後頭葉の障害が関係しているらしい。二日前このようなツイートをしたばかりだ。
また一つ不安が増えてしまった。