苦肉のふかし芋

大正生まれの祖母は戦時中の苦労話などを一切語らないひとだった。わたしの知る限りに、祖母の耳は遠く、それが老人性だったか否かも知らずにいた。

体小さくあり、更にその容貌は、わたしから見ても年老いになく少女のような愛らしさ、そして愛されていた。

一度だけ、伯母の酩酊具合の教えてくれたことがある。
伯母たちが小さかった時分の祖母の母親像というものを。
 
 
わたしにとっての祖母と、伯母たちにとっての母親とは違って必然を知りながらも、やはり戸惑いを隠せずにいたことを思う。
 
 
祖母の夫は絵描きにあったという。
絵描きと聞いて、気難しさを思い浮かべるが、祖母の手を合わす仏さまの向こうには、やはり神経質そうな男の写像があった。そんな気苦労すらも、祖母は語ることなかった。

祖母の家へいくと、いつも祖母の姿はなく、大抵にその影は畑にあった。祖母は農家の出ではなかったが、自宅からすこしばかり歩いた土地に菜園のようなものを耕していた。
 
 
けして肥沃な土地ではなかったと、今ならわかる。
不揃いな粒のトウムギ、今なら思い出せる。トウムギ、祖母は確かにそう呼んでいた。

痩せたさつま芋。いつだって祖母は、わたしの好きなものを知っていた。夏も秋も、祖母は知っていた。
 
 
 
なにも語らないのではない、すべて教えてくれた。今なら思い出せる。

作っても、作っても受け付けられない食事をまえに、いい加減を知れずにいたところへ、大家さんが畑で採れたからと、さつま芋を届けてくれた午後。

蒸し器から漂うほのか甘露に苦肉の意味を知る。

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