[181114] SNS時代で個性を生かす
人の個性って大事にしてほしい。腐らせては勿体無いよね。個性は繊細で、けっこう脆い。
なかにはものすごく芯の図太い人もいるけど、多くは人に認められないと育たないし生きられない。生き物みたい。心も周りで育てるものかもしれない。
いま、個性を押し殺して生きてる人が多いんじゃないだろうか。「そいつが悪い」ではないよね。せっかくのその人らしさ。個性には大きな力がある。同じ人間が世界に1人しかいないのって意味があると思うんです。
表現したい人が抑圧されていて、まだ見ぬ個性の芽がつぶされてるかもしれない。けど、それって人の “想像力” でクリアできる部分が大きいんじゃないかと思うんです。
そういう話です。共感してもらえる人がいたら嬉しいです。
▼この記事の主旨
✔️何かとたたかれやすいネットは表現が不自由になる。
✔️叩かれやすいネット・SNSで自分を発信できずに潜在的につぶれて表現を止めていく人たちの個性の発信場所が奪われてはせっかくの個性が勿体ない
✔️ネット上での相手の痛みに敏感でありたい
✔️議論は論破するためじゃなくより高め合うことが前提
✔️誠実な議論と対話が増えるだけで個性は何倍も発揮され世の中はもっとおもしろくなる
今日はふと思ったこんな内容です。
痛みに敏感になる
言葉ひとつで伝わり方はまったく変わる。
当たり前って思われるかもしれませんが、そう思います。
言葉といっても、しゃべるトーンとか語気の強弱っていうよりは、「言葉のチョイス」や「表現の仕方」っていう部分。言葉を選べていない人や、礼儀を欠いた人がネットにはすごく多いと思う。
自分のことを振り返ってみても、きっと良かれ悪しかれ色々な場面が浮かびますよね。「あの子を傷つけたなー...」とか「あの言葉はキツかったな」とか。その逆に「あの言葉はうれしかったな」もそう。
でも、
「自分があの人にかけた言葉、うれしかっただろうな」って思えることって、少なくないですか?
「自分の言った言葉で相手がたしかに喜んでくれた」という確信が持てることってあまりないように思います。
でも、「相手を傷つけたな」とか「あれは言っちゃまずかったかな」というのは、よく考えるし、どちらかというと、人が気にして思い悩むことが多いのは、後者の「受け手が嫌な思いをしていないか」の方だと思うんです。
なので、痛みに敏感になると、相手になるべく嫌な思いをさせず、こちらの伝えたいこともかなり正確に受け取ってもらえる。建設的な対話、心地よい会話ができるようになり、コミュニケーションの質はガラッと変わる。
それには想像力が必要です。想像力を相手に向けて発揮して対話すると、止揚(アウフヘーベン。矛盾する要素をぶつけ合って発展的により高度なものに統一すること)する議論ができるようになる。それが多くの人の間でされるようになれば、ネットやSNSで漂う “無意識の圧力” ともいえるような排他的な雰囲気で抑圧されていた人々の個性が、世に表現されるようになり、価値観はさらに多様化して世の中はもっと面白くなるんじゃないか。
そんなことを、この下に書いています。きょうのは抽象的なくせに固いなぁ。。。
「想像力」で対話上手になる
「傷つけた/傷つけられた/うれしかった」ことは感じやすくても、「喜ばせた」感覚って、確信がもちづらい。正直、本心はわからないみたいなことが多いんじゃないかと。
言葉を選ぶっていうタイミングで、悩むことが多いのはどちらかと言えば、両者に何か痛みを伴いそうな会話してる時の方が多い。
そのときに、相手が「傷つきそうかどうか」がイメージできれば、軽減したり、痛みをなくす言葉を選んだり、表現の仕方を考えることができる。「これ痛そう」っていう想像力です。
会話における痛覚のやり取りみたいな部分に敏感になれれば、人との対話はもっと気持ちよくできるし、伝え方も広がる。
だから相手の痛みに敏感になることって、逆に人を喜ばせるときでも生きるし、仕事をする上でも生きる。ケンカしやすい夫婦やカップル、友人の中でもすごくたいせつ。
ネットでもリアルでも、人の批判や中傷、「正と邪」みたいな論議がはびこっていて、少なくとも建設的な議論の表現口調ではないものが結構ある。配慮や礼儀の欠いた表現が多い。
政治と人権と命の尊厳における論議じゃない限り、相手の考えをねじ伏せて再起不能にするような言い方って、そんなに必要な場面ないと思う。所謂、論破するみたいな表現が荒っぽく使われてること多いですよね。
これだけ便利なネットやSNSに恐怖を覚える人っていうのは特に上の方の世代に多い印象だけど、礼儀礼節を欠いた表現や議論が横行してるからかもしれない。若い世代でもおなじ。
そんな世の中に疲労感や閉塞感、ある意味「うんざり」みたいな気持ちを抱えている人が、少なからずいる。
論破しようとしてないか
人に押し付けるような表現をしてないか、よく自分を振り返ってます。
目指したいのは②のよう言葉の選び方。
①キツイ表現
「こうじゃないとおかしいだろ」とか。そういう表現。
本人が意図せずとも、言われた相手の精神を固めて拘束してしまう。
言葉に強制力があることで圧迫感を与える。
基本的に相手の意を汲む姿勢はない。
②優しい表現
それとは逆に、なるべく相手を縛らないような言葉を使うようにしたい。
「それもいいね」「こっちはどう」とか。
一見、放任主義や無関心のように聞こえるけれど、
●相手には、考えを認めつつ選択肢を与え、
●自分も考えを提案しつつ相手の考えから知見を得ようとする。
●Win-Win。価値観の多様化。心の余裕を広げる。
●これらの言葉は、考えを提案しつつ、基本的に相手の意図を知る。
いわゆる止揚(アウフヘーベン)する姿勢。
後者は「自分から相手に何かを与える」ことで、「相手がもっている考えや価値観を自分の中でどう消化/昇華」するかに重点がある。
こっちを目指したい。
個性が創造しまくっていく社会
なので、「こうあるべきだ」と慣習に囚われて叫んでいくより、これからの時代、個を探して、個の中に次の新しいものを見つけることの方が世の中を変えると思います。それをつぶさないための1つとして、想像力を豊かにワードやフレーズを選んで表現し合えるネット社会でありたいということ。
誰でも1人で会社でもコミュニティでもつくることができるようになってきた今では、今まで以上に、人を知るようにならないと、つまり個人から個性的情報をキャッチしないと、時代から淘汰されていくように思う。
メディアが街なかでおもしろい人を探して取材するように、おばあちゃんが孫の好きなことや将来の夢を聞くように、人を知って深く掘り下げることが今すごく大切だなぁと最近よく考えてます。
芯の図太い人もいるけど、個性は結構脆い。染まりやすいし曲がりやすいし折れやすい。認められないと生きない。腐らせたら勿体ない。
この「独特なライフスタイル探し」「個性の掘り下げ合い」が、多くの人々の間で行われることで、世界観はどんどん広がっていく。
仮想通貨、シェアリングエコノミー、オンラインコミュニティ、AI、いろいろな文化がどんどん出てきたこの先、もっと新しい生き方する人が出てきて、新しい文化が生まれる。
通信技術や輸送システムが進歩して地球が狭くなっているといわれるけど、人を知り、縛らず、ギブアンドテイクで相手を認めるだけで、人はむしろ益々広がりを感じていく。
信念は何か1つでいいと思うけど、価値観は1つに縛らない方がいいと思う。
人々の価値観が死なずによく生きるようにしたい。
その方がもっと世の中はおもしろいと思う。
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