マルチにハマったSくんの思い出

 1919年、パプアニューギニアのガルフ地区に駐在していた行政官の元へある報告が届いた。
「沿岸地域の村々で住民等が興奮状態にある」
 住民たちは村落に現れた先祖の霊に「カーゴを搭載した大きな船で親族の霊が戻ってくるのでその受け入れを準備するように」と告げられ、それを受けた指導者等はこれに従い歓迎の準備を命じた。住民の興奮状態は1920年5月22日付で沈静化したという記録があるがその間、彼らは日常ルーティンを放棄し生活は荒廃していったという。
 
 後に一連の騒動について人類学者F・E・ウィリアムズによる調査が行われ、1923年には『ガルフ地区におけるヴァイララ狂信と土着儀礼の破壊』として発表された。これは後に『カーゴカルト』と呼ばれる信仰の典型とみなされるようになった。
 
 これらと類似する信仰は世界中に存在するが、それは果たして本当に文明から遠く離れた環境にのみ存在する俗信なのだろうか。
 
 
 今から9年ほど前、私はある工場の営業兼生産管理の仕事をしていた。納期に対し工程内で遅れがないかを毎日、3つある工場を歩きながらチェックしつつ、担当の作業者と雑談を交えつつ進捗を管理する毎日を送っていた。
 その工場の1つ、少しだけ離れたところにある比較的新しい工場でリーダーを勤めるSくんが居た。彼はシルバーのハーフリム・フレームでスクエアシェイプの眼鏡に肩に付くくらいの金髪の長髪で、田舎の成人男性らしく車好きであった。
 当時、彼が乗っていたピンクメタリックのダイハツ・ムーブは車高が酷く下げられ、タイヤは少しハの字になっておりリアガラスには「黒死蝶」の大きなステッカーが貼られていた。それが彼の人となりをなによりも表している。
 彼はそれから1年後にグレーメタリックの日産スカイラインを頭金無し、鬼のフルローン(300万円)で買った。
 それを受けて社内の車好き連中からは「なぜあの型のモデルを買ったのか」と陰でバカにされていたがさほど車に詳しくない私としては「なんだかおじさん臭いカラーの車だなぁ」という感想くらいしか出なかった。車についてそんなに詳しくないのだ。
 私達の勤めるその会社はお世辞にも給与が良いとは言えなかったこともあってか、彼は自動車の税金をボーナス月まで滞納していた。本人からは「遅延金が発生しないから大丈夫」という謎のライフハックを披露された。幸い、今の所私はそのライフハックに頼ることになっていない。
 
 そんな彼はスカイラインを手に入れてからというもの、職場の女性を食事に誘い会計時には「スカイラインに乗せてやったんだから俺は出さないよ」と堂々と言うくらいにスカイライン愛を爆発させていた。
 ただそんな彼は車だけではなくラジコンや釣りなど趣味が多く(釣り竿は私が逆立ちしても手に入らない程の高級品を使っていた)、実家暮らしだったとはいえ浪費が祟って経済的に苦しそうな姿がちらほら見られるようになっていった。
 
 そんなある日、彼から「人生変えたくない?」というラインが届いた。その短い1文で大概の人はすべてを察する事が出来ることだろう。人生を変えるとは間違ってもインド旅行的なそれではない。
 
 マルチ商法の勧誘であった。
 
 夢を叶えるにはお金が必要。そう語る彼は消費者金融で30万の借金をして怪しいセミナーと交流会に通っていた。経営者と直に話ができるだけでも十分元が取れると話していた。
 また、付き合う人やライフスタイルが変わればそれに合わせて収入も上がるとも語っていた。余計なお世話だろうが個人的にはライフスタイルよりも先に金髪のロン毛にシルバーのハーフリム(それもスクエアシェイプ)の眼鏡という組み合わせのほうが先に変えるべきではないかと思わずには居られなかった。せめて髪を切るだけでも眼鏡と雰囲気が合うと思う。
 それにしても全盛期の彼はお金があれば夢は全部叶うと熱く語っていた。そして私には「お金があればお前もモテるぞ。女の子と好きなことできるぞ」などと語っていた。確かに私はモテるタイプではないが彼に「お前”も”モテるぞ」と言われた事実になんだがおセンチな気持ちになった。
 
 とはいえ、彼だけではなく日本人の多く(私の目に入る範囲内ではという事だが)はある種の金銭信仰のような状態にあるように思える。
 彼のようにすべての問題はお金が解決する、という信念を持って夢を語る人が多い。その考えは概ね間違っては居ないものの、そのすべての夢を叶えるには膨大な金額が必要となる。その金額というものは実質的に手に入れる事が厳しいと思える程に大きなモノで、些かばかりその幻想に囚われすぎている様な気がしてならない。
 一時目にした「上級国民による暴走事故」などがいい例である。結局彼ほどお金と地位を持っていても結局は禁錮5年の実刑判決が確定した。
 結局の所、お金というものは万能ではないのだ。しかし、容易に想像が出来る範囲での悩みなどはある程度お金で解決出来るというのもまた事実だ。全ての問題が万事解決大団円とはいかずともやはりお金で解決出来る問題は多い。
 そしてその事実が現代の金銭信仰を助長させる。
 
 そんな風に冷笑的に書いているものの、私もやはりお金は大事だと思っているし、大好きだ。
 先日、ある方から私のnoteの記事にサポートを頂いた。私は今まで書いた記事にスキをもらう度に結構大喜びしているのだが、それとはまた違った形で私の記事を評価してくれる人が居るという事実を受けて今まで感じたことのない興奮を味わった。生まれて初めて他者が、私が作り出したものに対して”計量可能な財という形での価値”をつけてくれたのだ。”スキ”といった目に見える形での評価も大変うれしい。ただサポートを頂いた際に感じた感情というものはそれとは間違いなく一線を画するものがあった。
 私もまた、間違いなく現代の金銭信仰の一派の一人だということなのだろう。お金というものは現代人にとってあまりにも蠱惑的だ。
 なんでも介護ホームでも金銭問題と痴情のもつれがトラブルの原因になることが多いという話を聞いたことがある。どこまでいっても根本は変わらないのかもしれない。

 
 マルチ商法の起源は諸説あるもののアメリカで産まれた。1868年に創業したホームプロダクツ業者であるJ・R・ワトキンスは代理店を通じて製品を販売する一方で代理店が別の業者を代理店としてスカウトした場合に報酬を支払う商法を採用しマルチ商法の原型を生んだと言われている。
 それから長い年月を経て今この現代でも根強くその派生とも言えるビジネスが多数存在している。
 現代ではそういったマルチ商法の勧誘の際には概ね幹部だったり上層部の人間による「儲かっているアピール」というものが行われる。その場では「夢を叶える」「好きな事をして暮らせる」という”夢”の様な生活が語られる。「金さえあれば何でも出来る」という事を強調するのだ。
 そしてその会員になることでその”夢”を共有することが出来る。
 
 そういうわけで私の職場のSくんもそんな夢に向かって記念すべき第一歩を踏み出す一人となった。
 彼の勧誘を受けて数人がついて行ったかと思ったら瞬く間に彼の周りから人が去っていった。しかしそんな状況でも彼は「信じない人には何も掴めない」と笑っていた。
 彼は特徴的な笑い声を持っており、その「え”ぁ”ぁ”ぁ”あ”」という声がその時ばかりは痛々しく感じられた。
 
 結局、彼に残されたものは多くのマルチ商法経験者と同じ様に借金だけだった。そして彼は自身が勧誘した友人からの「そんなに稼げるなら初期費用肩代わりしてよ。稼げたらそれですぐに返すから」という言葉を受けて、追って30万の借金をしていたので元金だけで60万まで膨れ上がっていた。
 信じるものは救われるというが、救いとは何なのかと考えさせられる。あるいは30万で受けられる救いのサービスの範疇がここまでだったのだろう。資本主義思想は救いというものの形までも変えたのかもしれない。
 
 こういったマルチ商法はカルトが用いるマインドコントロールと結び付けられて論じられる事があり、その場では「経済カルト」と呼ばれることもある。
 カルトと言うと些か聞こえが悪く、どこか暴力的で危険な存在の様に感じられてしまう。
 しかし、学術的にカルトとは”カリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な会員の集まり”の事を指す。こうした視点で見てみると割と異端で特異な存在とまでは言えないのではないだろうか。
 たとえばインフルエンサーだったり人気配信者に芸能人。そういったカリスマ的な存在のファンなどは限りなく”カルト”的と言って差し支えない。
 日本人は宗教を感じられる”カルト”という表現に対して一種のアレルギー症状のような拒否反応を示す人間が多いように思えるがその実、類似事案というものは至るところで目にする。
 
 カーゴカルト系統に属するものの多くは、何かしらの「積荷」を求めて荷役するモノ(飛行機など)を模倣したハリボテを制作することでカーゴを呼び込み、超自然的な存在からの恩恵を享受しようとするものである。これは類感呪術ととても近い様に思う。
 また、ある民族では白人(ヨーロッパ人)がカーゴ(文明)を独占しているのは、カーゴの獲得方法(ネイティブにしてみれば、それは超自然的な呪術的方法ということになる)を白人がネイティブに明かさない、もしくはもともとネイティブ向けに送られたカーゴを白人が不正な手段を講じて横領してしまったからであるという認識がなされていたりする。それは現代の我々が生きる文明社会に於いての貧困層が、富裕層が何らかの不正や非倫理的な振る舞いによって自分が受けれたかもしれない富を独占しているという被害者的思想を抱くのとも近い。決してそのロジックはここで言うネイティブ特有のものではない。
 一昔前に話題になった「引き寄せの法則」というのもこれらのカーゴカルトと似ており、稼いでいる人の近くで同じ様な振る舞いをすることで自分も同様に富を得ることが出来る、という思想もある種の信仰と言えるのではないだろうか。
 それらは私のような皮肉屋の前ではただの似非科学と超自然との間に産まれた歪な子供のように見えてならないが、こういった考え方が生まれるのにもそもそも人間が物事を理解するのに”物語性”を必要としているからであろう。
 こういった超自然的なものだけでなく、人は様々なものを理解するために”物語性”を必要とする。例えば食事中のマナーが悪い人が居たとする。すると「親から教育を受けなかった」「そういう家庭で育った」「誰も注意してくれなかったのだろう」「注意を受けてもそれを理解できない知能だった」などと、その問題における原因をストーリー仕立てで理解しようとする。
 カーゴカルト信仰においても自分たちが持ち得ない富や文明といったものを理解するために「カーゴ」というストーリーで理解をしようとしただけのことである。それは我々の生活の中で馴染みのない光景であったが故に以上で野蛮な信仰という風に見えてしまうが本質的にやっていることは現代人とさほど変わりないのだ。
 
 マルチ商法にハマったSくんも、運営会社が提示したストーリーの基づいて自分がカーゴを受け取る未来を夢見た。ただ彼が信じたストーリーは彼向きの物語ではなかったと言うだけのことである。
 もっと他の、別のストーリーを選択していたら彼が成功して高級車を乗り回す未来があったのかもしれない。
 
 程なくしてSくんからマルチ関連の発言は出なくなった。職場で勧誘しなくなっただけかもしれないし、夢から覚めただけかもしれない。
 私がその職場を退職してもう随分経つ。たまに当時のメンバーと飲みに行くことがあり、その際に耳にした噂では職場結婚をして今では車を乗り換えてSUVに乗っているという。なにやら女性側の実家で同居しているとか様々な噂が飛び交っていたがあまり覚えていない。
 とりあえず今でも元気に暮らしているということだけは伝わってきた。
 
 狂信的な興奮状態というものはいつしか終わりを迎える。それがある種の”花火”のような刹那的なものとして訪れるか、ただただ尻すぼみで静かに終わり日常へ戻っていくものか、それはその瞬間が訪れてみないと分からない。
 それがどちらであったとしても、幸せなことなのかもしれない。ある一つのルートでは夢の中で終わることが出来るし、もう一つでは終わった後も人生は続く。そしてもう一度夢を見ることが出来る。
 
 そういう理由で私は今然るべき対価を支払うことで私のもとを訪れようとしているカーゴ(宅配ピザ)を待って、映画を準備し興奮状態で待っている。
 
 まだ夢は終わらない。

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