2011.3.11から10年 最小単位のコミュニティを守ろう
こんばんは。18回目の投稿です。
ご縁があってお読みになられた方、まずはプロフィールをご覧いただければと思います。
災害からの教訓
今日は、3.11。東日本大震災から10年です。
私はその日、当時住んでいた住居関連の手続きか何かで、休暇をいただいており、妻と一緒に車のラジオで発災のニュースを聞いたことを覚えています。家に帰りTVを見ると、想像を絶する自然の力に飲み込まれていく町の姿があり、呆然と立ち尽くしました。
当時、下水道関係に従事しており、大都市からなる応援ルールに基づいた被災地への災害派遣が決定。神戸市は、さいたま市と共に福島県の応援にあたることになりました。一陣は、3月13日には神戸を出発しました。しかし、3日後に帰神。原発の影響が計り知れず、体制を立て直してから災害派遣はリスタートすることになりました。
私は第2陣として、3月26日に出発、新潟空港まで飛び、空港で引継ぎ、磐越道、東北道を使って福島県庁に入りました。当時、採用2年目で持っている技術では被災地の支援をすることが出来なかったため、主に運転手、通信体制の確保、ヒアリング結果集約等の裏方作業に徹しました。
この時の教訓は、
①「自分の役割を見つけて、自分で判断して行動し、自分を活かすこと。」
②「拠点づくりが大切。特に通信体制の確保、神戸とのリレーションシップをスムーズに。」
何せ技術力が無いので、ある能力でやるしかない。出来たことはほんのわずかでしたが、この福島県への災害派遣の経験が、後の熊本地震の際の災害派遣に活きることになります。
熊本地震の時は、第一陣で4月19日に熊本入りしました。この時は政令指定都市の応援ルールに基づいて派遣が決定。第一陣はスピード感をもって現地の状況を伝え、次から派遣される職員がスムーズに支援体制につけるよう地ならしも行い、何より熊本市職員に被災自治体にしか出来ない業務を安心して進めてもらえる場づくりと明確な役割分担が早期に必要。拠点立ち上げ、熊本市や他都市との連絡調整、調査シート作成、現地調査、熊本市へのアドバイス、等あらゆる作業を現地で行いました。
この時の教訓は、
①「報連相は情報の鮮度と精度が命。」
②「支援自治体になるには、片手間の体制では無理。本部(神戸)も非常事態シフトを組む必要あり。」
係長昇任前の主任級で行きましたが、非常時における組織マネジメントの必要性を強く感じました。
この時強く感じたのは、(当時)約20年前の阪神大震災で被災した「神戸市」の防災に関するインセンティブが失われている。そして、他都市も被災時に期待を寄せなくなっている。悔しさで、帰りの新幹線で泣きました。
そこから私は下水道事業に従事している期間、平常時被災時ともに強く、柔軟にデータを検索、集計、加工、分析することが可能なweb版の下水道台帳システムの再構築に取り組みました。仕様書を作成後、再構築完了の姿は見ないまま区役所へ異動となりましたが、災害時に多様な支援を行えるシステムになっていることと思います。
土木職員として被災地支援の経験から得た教訓は、実体験を通じて学んだもので、これからも忘れることはないと思います。
被災地の方々に向けて誰もが出来る事は、地震があったことを「忘れないこと。」だと思います。
東日本大震災で被災された方々が、それぞれの復興を感じられる日が早く訪れることをお祈りいたします。
最小単位のコミュニティを守ろう
阪神大震災の時、小学校2年生でした。
父が公務員であるため、1か月以上家に帰れないと予測し、家族でおじさんのいる岐阜に一時引っ越したこと。引っ越した先で、ぜんそくが酷くなり、私だけ神戸に帰り、父の友人宅に住むことになったこと。その日の朝、父がおんぶして家から友人宅に送ってくれたこと。
父がどんな気持ちで私をおんぶして、友人宅に送ってくれたのか、今ならわかる気がします。
被災自治体の公務員は、自分の家も家庭も被災しながら、自治体業務に徹しなければいけません。両立できるような被害の大きさだったらいいけど、東日本大震災クラスだったらどうでしょう。
自治体職員として、家庭を顧みらずに、災害復興に従事した結果、家庭崩壊の危機に陥ることもあるかもしれません。それは避けたいですよね。
平時から、被災時における家庭のルールを話し合い、子供には父ちゃんの仕事の役割も徐々に伝えて、少しづつ理解を踏まえていきながら、妻さんや子供達の安心安全な生活を守りたいと思うのです。