習っていることと習っていないこと
一つ前の記事で3年生の「わり算」の単元末で子どもたちの問題づくりをしたことを書いた。
ここでは、問題づくりの活動を通して感じたことを書こうと思う。
問題づくりにあたって、わり算の問題文をつくる上で大切なキーワードを出させた。
「1人分は◯◯」「何◯に分けられますか」「同じ数ずつ」「分けます」
など色々子どもたちが言ってくれる。
いよいよ問題づくりに入ろうとした時、「習ったことじゃないとダメですか」という質問。
私は、「わり算は習ったわけだから、わり算であればいいですよ。」と答えた。この中には、“きっとあまりのあるわり算とか、相手を悩ませる問題を出す子が出てくるだろう。それはそれでよい”という意図をもって答えた。
しかし、「自分が計算してみて答えが出せなかったらダメだよね。『ねえねえ、この答え何?』って聞かれて『俺もわからないや』なんてことあっちゃまずいよね。教科書やドリルだって、ちゃんと答えてくれるから。」
という点は押さえた。
予想通り、教室中に張り出された問題の中には、3桁÷1桁の問題や余りを出させる問題、割り切れるが九九をやや超えた数の問題が32人中4名出てきた。
その問題を解いている子たちは、困惑しながらもこれまで身に付けてきた力でなんとかかんとか答えを導き出していた。友達ともコソコソとあーだこーだ言いながら。
中には、「誰だ。こんな難しい問題出したのは。習ってないじゃんか。」
と怒る子も。
私は、この「習ってない」に引っかかった。
確かに習ってないことは事実である。しかし、既習で身に付けたことを活用すれば解かるわけだ。あまりが出るなんて大したことじゃない。
そこまで計算が得意じゃない子も「あまっちゃった」と言う。しかし、それは問題が解決できていることだと友達と確認し合っている。
よく「習っていないことはやらせない」とか「習ってないことをいう子には、『すごいね。またこの先で勉強するからね』と流すとよい」などと教えてもらったことがある。
そういうのは、なんとなく違和感でしかなかった。
そして、今回「習っていないこと」に出会う子どもたちの様子を見ていて、むしろ協同が勢いよく生まれた姿を見ると、そこまでかけ離れすぎた内容でなければ扱ってもなんら問題はないと再確認できた気がする。
でも、ある程度習熟してからというのは守っていきたいことではある。
今日の授業風景を見ていて、天地明察のあるひと場面が重なった。
主人公の渋川晴海が算術絵馬を見て必死にその難問を解こうとする様子だ。
子どもたちがテンションマックスになって興奮しながらの算数だったけど、楽しかった。
子どもの頃、算数が大嫌いだった私である。
なんの因縁なのだろうかね。