【小説】月が綺麗な夜もある
ヤマザキくんとは同じ塾だった。
母親がママ友から「厳しいけど成績を上げてくれるイイ塾よ」と聞いてわたしを送り込んだ英語の個人塾だ。会話なんかまったくやらないで千本ノックみたいにひたすら英語の長文を読むだけだった。成績が上がったかどうかはわからない。
ヤマザキくんは小太りでそんなに背は高くなく、ちょっと目にはいじめられるタイプに見えた。が、そうではない。よくしゃべる子で勉強はできた。少人数のこじんまりした塾は成績のいい子ばかり集まっており、その中で彼は居眠りしていても一番難しい高校に入れそうだった。
ヤマザキくんとは帰る方向が一緒だった。
塾は住宅街の中にあり、地下鉄駅まで人通りのない道を10分ほど歩かなくてはならない。先生は「女の子が夜道を1人で歩くのは危ないから」と、常にヤマザキくんと一緒に帰るようわたしを仕向けた。別にいいけど。わたしには興味のない難しいことを延々としゃべる人だけど。でも彼が休んだ時、月も見えない暗い住宅街を走って帰るのはちょっと恐かったから、次の週ヤマザキくんがいてホッとしたのを覚えている。
だから恋が芽生えたかと言ったら全然そんなことはない。
ヤマザキくんは帰り道でいろいろ話をするけれど、その話題は常にわたしの興味とかすりもしなかった。
「宇宙はビッグバンで始まってね」
「シンギュラリティは2030年を待たずに訪れるんじゃないか」
「政治は政治家じゃなくて官僚が動かしてる」
はあ。
「社会を変えるにはやっぱり官僚になることかなあ」って言われてもね。「へえ~」しか出てこないでしょ。中学生で自分の将来なんか見えない。何に向いてるかもわからない。適当に学校を出て適当にどこかの会社に入り、その後は想像もできなくて空白が広がるばかりだ。
春が過ぎて暑い夏が終わるころ、ヤマザキくんのなりたいものは「官僚」から「ベンチャー企業の立ち上げ」になった。勝手に自分の道を行ってくれと心の中でつぶやくわたしを尻目に、彼は暗い住宅街から地下鉄駅まで「ITを使って世界を変えるんだ」みたいなビジョンを延々としゃべっていた。右から左へ聞き流していても全然気にならないみたい。話すのが好きなのかな。聞いてくれる人がいないんだろうか。
秋も深まったころ受験模試が立て続けにあった。わたしは塾に来ているどの子の点数にも及ばず、志望校の名前さえ口に出せなくなった。がんばっても偏差値が上がらない。親も心配顔で口出しするし、なにより自分が情けなくて悲しくていつもイライラしていた。
ヤマザキくんは相変わらず一番を独走だった。クイズ王になれるくらいの知識はどこから来るんだろう。彼ほどとは言わないけど、どうして自分はもっとスマートに問題が解けないんだろう。どうしてわかっていることを間違えるんだろう。がんばっているつもりなのに力が届かない。もう無理なんじゃないか、ランクを下げて希望以外の高校に行くしかないのかと思い悩み、足取りはいつも重かった。
「高校に入ったら何部に入ろうか迷ってるんだ」
いつもの暗い帰り道でいきなりそう言われてわたしは我に返った。高校? 部活?
「科学部みたいなのもいいけど、ちょっと初めてのスポーツもやってみたい。弓道とか。でも写真もけっこう好きなんだ」
科学部も弓道部も写真部もあるのは県で一番偏差値の高い高校だ。憧れて学校案内を読んだから知っている。もう入学するのが当たり前みたいなその言葉に胸のどこかがカチンと音を立てた。
「いいよねヤマザキくんは。寝てても合格するんじゃない。私と違って」
言ってしまってから後悔した。その言い方には、どんなに鈍い相手でも分かるほどの毒が含まれていた。ヤマザキくんは黙った。放ってしまった言葉は取り返しが付かず、夜道を歩く私たちの間をぐるぐる反響した。
ごめん、こんなこと言うつもりはなかった。その後どんなことばをつないだらいいかわからず、沈黙のままどんどん地下鉄駅が近くなった。
「あ、月が綺麗だよ」
街灯が煌々と輝く通りに出る手前でいきなり立ち止まったヤマザキくんが指をさした。上を向くと、まん丸な月が空にかかっていた。今日は満月だっけ。受験のことばかり考えていたから季節の移り変わりなんか気づいていなかった。
そのままポカンと何も考えずヤマザキくんを見たら、急に焦ったように「いや、そういう意味じゃなくて、月がさ、出てたから、」と、わたわた言いわけをした。何を言ってるんだろう。
「うん、綺麗だね。満月だね」
わたしは初めてヤマザキくんにまともに返事した。沈黙が途切れてホッとした。丸い月は商店街の街路灯と同じくらい私たちを明るく照らしていた。ちょっと励ますみたいに。それを見ていたら、気を取り直してこれからまたがんばろうという気持ちが少しだけ生まれた。月はいつもと変わらず欠けてはまた丸く生まれ変わる。わたしもまた生まれ変わればいいんだ。今日からまた努力すればいいんだ。いつまでも空の月を追っていたくて、地下鉄に降りていくのが名残惜しい気がした。
地下鉄を待つ間に「食べる?」と差し出されたのはポケットから出てきたラムネ菓子だった。「ありがとう」といって個包装を1つもらう。ラムネはさっきの月みたいに白くてまん丸で、ちょっと酸っぱい味がした。
お月見に寄せて何か書こうとして何も思い浮かばず、もう参加を諦めようかなと思っていた時、暗い夜道を歩く塾帰りの中学生が心に浮かびました。noteでは初めて書く小説です。これを塩梅かもめさんの#世界の美味しい月と、渥美まいこさんの#新しいお月見に投稿します。どうぞよろしくお願いします。
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