『新しい哲学の教科書』日常系論からのメモ

割と前に読み終わっていたが、正直プロローグが一番ハマった印象で全体としてあまり熱量が湧かなかった。ので面白かったところなどを単にメモしておく。

神の意味。「高さ」(超越性)と「広さ」(普遍性)が近代以前の「信仰の時代」にそれぞれ実存(生きる意味的な話)と秩序を支えていた。「大きな物語」の失権とも言える超越性の喪失は理解できるが、普遍性についてはどうだろうか。世界が同じ神を信じたことは一度たりとも無いし、同じ宗教の中でも争いは起こる。個人的には超越性の方に大きな重みを感じる。

ニヒリズムとメランコリー。ニヒリズムは普通「世界の一切は無意味である」という主張だが、裏返せば元々は意味があったということで、その喪失に重心がある。そうではなく、最初から「大きな物語」などない時代、意味そのものが見出しにくい状態を筆者はメランコリーと呼ぶ。これは個人的な「セカイ系」の解釈とよく符合しており、セカイ系とは意味への一縷の望みをヒロインに託す点で正にニヒリズム的だ。(「日常系前史:他者としてのキャラクターとセカイ系」参照。)
(ここまでがプロローグ)

思弁的実在論。近代からの観念論は認識の届かない世界を扱わず、実質無きものとしてきたが、発想を転換してむしろ殆どあらゆる可能性のある領域と考える。それは当然理解できる一方、「亡霊のジレンマ」は理解しづらい。非業の死を遂げた者の亡霊達について理解し、またそれが救われるには「神の到来」が必要だという。しかしそもそも救われるのは必然なのか? 道徳主義の誤謬に近い論法に見えてしまう。

オブジェクト指向存在論。内容的にはオブジェクト指向プログラミングと特に関係しない。オブジェクトと人間ではなく、オブジェクトとオブジェクトの関係も対等に扱うというのが重要な点に見えるが、あまり面白い結論に繋がらないような印象だった。私が元からアンチヒューマニズム的なこともあるだろうか。

多元的実在論。まず「接触説」として身体的な世界の経験が指摘される。スポーツで言えば、本気でプレイしていると他のプレイヤーやボールを観念として(理知的に)把握しているというより、直接に感じている。こうした経験を踏まえれば、実在論とは結論ではなく、むしろ哲学の出発点となる筈だ。
その実在について、多元的実在論は複数のアクセス方法を認め、また統合不可能とする。相対主義を乗り越えようとする意図のはっきりした戦略。統合不能の要件は明らかに全体主義への対策だが、この折衷案が果たして機能するのかは未知数という印象。

マルクス・ガブリエルの新しい実在論。世界を意味付けるメタ世界の不可能性(そのメタ世界を含むメタメタ世界がある筈で、更にそのメタメタ世界を含む…無限後退!)を「世界は存在しない」という強烈なテーゼに集約する。そして存在は「意味の場」に現れることだ…全く客観的に「存在する」ことなどない、ただ意味の場は人間だけのものでもない。意味の場とは(人間に限らない)認識システムの系とでも言えば良いのだろうか? 多元主義かつ実在論な存在論として確かに説得力がある。
そしてガプリエルは実存的な悩みを「ありもしないことを期待するから」だと斬り捨てる。尽きることのない意味の場に取り組み続けること、それ自体が人生の意味なのだと。この意味の場ごとに起きる体験を、人間社会における無数の「小さな物語」と考えても良いのならば、これはまた「『動物化するポストモダン』における諸概念」に書いた日常系的な実存・倫理観と符合するように思うが、どうだろうか。
(以降エピローグ)

現実性。竹田青嗣はその3つの条件を指摘している。自己意識を伴うこと、知覚した対象の意味を情動と共に把握すること、周囲の世界に整合性があること。2つ目の条件の「情動」が欠けるところにメランコリストの問題がある。とはいえ憂鬱さえ情動の一ではあるのだから、そこには「意味」へ至る道があるのではないか。
ここで「かなしみをすすんで体験したい者などいないが」と軽く書かれているが、所謂「感傷マゾ」は正に悲しみ(増強された損失感・寂寥感)を通じてリアリティを回復しようとする試みに思える。更に言えば「振られたい」「寝取られたい」のような嗜好も似た原理な気がする。

エモさ。筆者は『君の名は。』を引きつつ、言い知れぬものに感動させられる、匿名の情動が自動的に喚起される体験を指すと分析する。意味は過ぎ去ってしまったが、それでも身体は情動を覚えている。自分は完全なメランコリストなのではないという実存の感覚。

「高くもあり広くもあるのは他者である」。筆者のこの主張は凡庸と言うか、あまりここまでの現代実在論とは関係ない気がする。ただ実際、他者こそが「小さな物語」であったり「関係性」であったりの源泉だ。現代の典型的な超越性は「推し」ではないかとも思う。

総じて、単にポストモダン以降の哲学に触れておくかという程度の気持ちだったが、日常系的な問題意識の面で意外に共鳴する部分が多く、むしろその点で楽しんだ。理論の面で言えば「新しい実在論」に最も説得力があり魅力的に見えた。
そもそも問題意識で言うと宮台真司とか、その辺りにも親和性の気配を感じているものの、NIH症候群の逆を行く(単純に西洋被れの?)精神で触れてこなかったが、いい加減に手を出しておくべきなのかもしれない。まぁ最近は「内容がない」とかの妄言も稀で、そもそも純粋な「日常系」が少ない印象もあり、自分の主な問題意識ではなくなっている可能性は高い…。

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