自己紹介としての「批評性」批判

「語る」オタク達を脅かし続ける一つの呪いがある――「批評性」という呪いが。

それは一体どこからやってきたのか? オタク文化を云々する批評家は意外に昔からいるが、やはり最大の伝道師というと東浩紀ではないかと思う。
Twitterも無いような頃のインターネットにおいて氏は最大の嫌われ者となると同時に、また数多の後継者を生み出した。
何か「実のある」語りをしようとしたオタクが社会反映論に終始してしまうのは、その語り口、あるいは文学的アプローチの摸倣に見えてならない。

ある特定の作品を読み解くことが、趣味嗜好の差異を超えて同時代人がともに生きる「この社会」を分析することに繋がる、そういった前提がないと、すべての評論は、ただ自分が好きな作品を深読みし、褒め称えるだけの行為に堕してしまうからです。実際に、いま文芸評論はそのようにして急速に質を落としています。

東浩紀『セカイからもっと近くに』

東はこの直前に作品について、現実の社会と関係しない「現実逃避」が良いのか悪いのかは判断できないと断っている。その点で東は抑制的で、別に批評性を作品価値に直結するような立場ではない。
東への猛批判にもかかわらず直系の後継者のような論調を帯びる宇野常寛は、むしろ明け透けと「あ、戦後アニメーションって終わったんだな」などという悟りを述懐している。(『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』p.302)これこそ批評性への信仰告白とでも言うべき態度だろう。

批評性信仰の典型的な語り口とは、例えば「最近の作品には○○したいという欲望が背景に潜んでいるが、それを意識してはいないしまして批判的でもない。こんな批評性のない作品ばかりでは駄目だ」といったものだ。「駄目だ」のところは個々人の問題意識が反映される。社会寄りならば「社会から倫理が失われる」だとか、作品寄りならば「斬新な作品は生まれない」など。前者はまだしも、後者は殆ど論理武装した個人的感想に等しい。

現在は社会反映論全開の批評家の存在感が後退し、作品そのものに正面から取り組む批評家も等しく活躍している印象がある。(総体としての批評家の存在感は往時ほどではないとしても。)しかし宇野の劣化コピーのような批評性信仰は未だネット上に少なからず存在するし、私はそういうものに出会す度に「またか」という気分になる。

上に挙げた批評家の仕事とは作品によって社会を理解することだが、私にとってそれは全くの逆だ。私がしたいのは社会がどうかではなく、作品が面白いと感じる、その体験の根源を探りたいということなのだ。
別に社会に興味がないとは言わないし、時にそれは必要不可欠でもある。例えば『天気の子』の魅力について社会問題に触れずに話すのは難しいだろう、作者も読者も社会から独立などしていないのだから。その点で私は(こういう話をしたが)むしろ構造主義的でもある。

作者のあらゆる「意図」、意識・無意識を問わずプロットから文体、語彙に至るまでの選択、その全てに社会的文化的な影響があることを認める。いやそれどころか「それが全て」とさえ言えないだろうか?
ロラン・バルトが「作者の死」と言った事態、その中で「テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」と述べたのはそういうことだ。(この立場の分析者は作品でもなくテキストでもなく「テクスト」という言葉を使うが、知らない人間にはどう見ても表記揺れだろとずっと思っているので使わない。)
私はそこまで過激派ではないが、作者の分析、つまり作家論もやはり必要であればやることだと思っている。

作品を理解したいという欲望は屢々現実という極めてつまらないもののメタファーとして解決される。この人物は作者。この人物は作者と長年の付き合いがある仕事仲間。この人物はなんと読者を象徴している! なるほど。それでこの作品が面白いのは結局何故なのか?
これもつまるところ社会反映論と同じなのだ。鑑賞の瞬間の最も尊きもの、その場の体験を直視せず、作品の諸要素のパズルをする観念の遊戯に過ぎない。俯瞰すると掻き消されてしまうように微妙で、しかし目の当たりにすれば必ず心奪われる、そんな輝きが現場にはあるはずなのに。

体験とは実に個人的な問題に思えるかもしれない。だが少なくとも体験の重要性については普遍性を認めて良いのではないか。
あらゆる娯楽はインタラクティブ性を追い求める。それはゲームであり、インスタレーションであり、dボタンすらその一例と言える。この事態についての知識を私は持たないが、例えば「発達の最近接領域」「フロー状態」といった心理学理論に現れる適切な難易度という概念を、適切な情報量と解釈すれば一つの仮説を与えることができる。静的なコンテンツよりも動的なもの、それもインタラクティブな方が、受け手が好きに触って情報の流量を調節しやすいのは明らかだろう。

何にせよこの作品体験の時代において、静的・客観的・主知的な語りはあまりにも鑑賞の現場から遠く隔たっている。なすべきは自らの体験を臆せずに語り、そのどこかに隠れ棲まう普遍性を探求することだ。いや普遍性などと大袈裟には言わない、それは何か価値のあるもの、いつか誰かと分かち合いたいものならば十分に過ぎる。あるいはまさに「自分が好きな作品を深読みし、褒め称えるだけの行為」を祝福すること。作品の素晴らしさとは、いや我々にとってのリアリティとは、そこにこそあるはずなのだから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?