クライミング界にはびこる浅慮
こんにちは。クライマーのKinnyです。
今日は、クライミング界で生き延びるためのTipsです。
★★★最重要Tips: 浅慮を見逃してはいけない ★★★
■ なぜ浅い思慮が蔓延しているのか?
クライミング界に蔓延しているのは、主に男性メンバーによる
浅慮
です。つまり、
思慮の浅いこと。
浅慮に、殺されたり、殺されそうになった人の思いは深く、つらい。
最近では、祝子川で死亡事故が起き、思慮の浅い計画であるとともに、思慮の浅い確保技術の結果でした。
亡くなった被害者側の立場に立ったことがある人間として、いかに悔やんでも悔やみきれない傷が残り、今後何年もの長きにわたる苦悩が遺族に残されたことか…と思うと、やりきれない思いです。
■ 思慮の浅い人間を作るのは、いったいなんだろう?
教育の不在なのだろうか?
それとも、本人の資質なんだろうか?
それこそ、その問い事態を考えていない、つまり、浅慮、なのであろう…。
■ なぜ思慮が必要だとそもそも考えないのか?
思索…それ自体が、登山界やクライマー界から、失われて久しい。
そこには登れさえすればよい、グレードさえ稼げればよい、という、行き過ぎた、結果重視主義があり、結果さえ出れば、どんな内容でも問わない、つまりスタイルを問わず、またプロセスに価値を置いていない…。
具体的に言えば、登れさえすれば、エイドで構わないとか、登れさえすれば、内容的にしょぼいもの…たとえば、ロープの長さが足りなかった、懸垂下降でロープが地面についていなかった…そのようなひどい内容でも、構わないというような、クライミング文化になってしまっているのである。
■ 社会的構造
思慮が浅いままの人間でも、楽勝で生きていけるように、構造的に作られてしまっているのが日本社会で、結局、弱者を再教育するよりも、その弱者のまま、考えないでも済むように、周囲がおぜん立てしてしまっているのが問題なのである。
たとえば、
残置直がけが九州のローカルルール
というローカルルール…。無知でいることを助長している。
■ クライミング終了点の歴史的遷移
クライミングの終了点に関しては 歴史的遷移がある。
JDT(ADT)
→ 流動分散
→ 固定分散
→ クワッドアンカー
で、現在ではクワッドアンカーが主流である。
JDTはジャパニーズデストライアングルの略。アメリカンデストライアングルも同じものである。錫杖などは今でもコレ。正しいわけがない。
新しい情報が伝播されないのは、山岳会が衰退したことにより、中央組織をトップとするピラミッド構造による情報伝播が上手く、機能しなくなったためだ。
現在、正しいクライミング情報の伝播者はクライミングガイドだが、クライミングガイドが情報を得る手段が、日本には存在していない。海外の個人的な知己によって、情報を得ているというのが真実だろう。
■ 現在でもJDT、ADTが健在
実は、アルパイン業界では、JDTやADTは、いまだにご健在である… 古いクライマーは、新しいギアを購入しない。ので、結局、取り扱い説明書を見ない。したがって、新しい技術情報が入ってこない。
その上、古くからの教育をそのまま横流しにしている。古いクライマー自身は、人工壁に通うことをしないので、正しい確保方法すら知らず、壁から2mも離れた位置でビレイしているが、それが間違ったビレイだと本人が気が付いていない。つまり、情報がアップデートされていない。
その上、山やということなので、ITをはじめとする情報機器とは無縁である。
そこが問題だが、そこを問題とは多くの人は捉えていないだろう… ずっと自分の古い技術を信じ切っているからである。
JDT(ADT)に関しては多くの記事が出回っているので、これを読んだ皆さんは、軽く検索して、勉強してください。
教える側がこれでオッケーと思っている、っていうのが問題点である。
■ ロクスノで毎年知識が周知されるまで繰り返し特集する
これなど、年に一回、ロクスノが、新人が入る4月号に毎年、終了点特集を昨年の記事と異なるライターに書かせれば、いいだけだろう。
国際登山ガイドの山下さん、なんて、いい記事書いてくれると思いますけど…。
■ エチケットとして、”浅慮はダメだ”の空気感を醸造するには?
まぁ、支点に関する知識が育っていないことの背景には
クライミングの倫理観として、男性の浅慮が肯定的に受け取られているクライミング文化がある。
それは、いわゆる、”射精責任”が問われず、男性が性欲に負けて、うっかり…という妊娠…をさせてしまっても逃げ切れる文化的背景が重なる。
射精→妊娠という重大結果の責任…つまり子育て負担…を女性の側が受けてしまう。そうなっても、女性の責任にされてしまうのである。
そして、それを社会が男性を擁護し、女性を擁護しない、という構造になっていると、社会そのものが認知してない、それと同じ構造である。
たとえ、そのセックスが女性の側にとっても快楽だとしても、それで男性とはイーブンであり、その女性一人が妊娠・出産・子育ての20年にわたる負担を一方的に背負うべきだという男性の主張には、無理がある。
”快楽5秒、苦役20年”なら、女性にとってセックスそのものが、まったく全く割に合わない。
したがって、セックス自体をしたい、と思う女性がいなくなるだろう。
同じことで、クライミングも、セカンドの自分は確保するだけ、あるいはエイドで登るだけで、フリーで登る箇所がないクライミング…は例えるなら、レイプされる女性と同じ立場である。
つまり、自分の側は、まったく喜びがなく(フリーで登る箇所がゼロ)、一方的に尽くすだけのクライミング。その上、命まで取られそうになったら? どこが楽しいのか? 行きづりの相手の子供を身ごもってしまった女性と同じ、貧乏くじクライミングである。
その貧乏くじクライミングが実際に、貧乏くじであると、誰の目にも明らかになるように起ってしまったのが、祝子川の死亡事故である。
問題は、このようなクライミング内容でも、事故報道されなかった場合、偶然にも、生還してしまえば、自信をつけてしまうクライマーが後を絶たないことである。一発やり逃げ出来たから、次の女性も同じだと自信をつけて、1万人の女性と寝たことを自慢するヤリ男と同じことになってしまっている。
実際、私の相方は、そんなクライミングで自信をつけていた。
こうしたクライミングは、例えるなら、相手の様子など不在で、自分の射精の快楽だけが目的、の男性と同じことだった。
私のクライマーとしての屈辱は、まるで、自分の体を2000円で差し出してしまった売春婦のごとくだった。東電OLと同じ気分ってことだ。
■ クライミングにおけるパートナー関係は相互扶助が基本
クライミングにおけるパートナー関係は、相互扶助が基本だが、結婚において、相互扶助ではなく女性の側による一方的な自己犠牲が行われているのと同じで、クライミングにおいても、女性クライマーは、弱者男性に身を売る弱者女性みたいな立場になっています。
結局、日本社会の病理は、クライミング界に如実に表れているのである。
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