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阿部智里の八咫烏シリーズに触れて7<『望月の烏』まで読了>


阿部先生の文章の魅力


 阿部先生の小説にある地の文は、語彙のオンパレード。
季節によって彩られる花や月、空や雲、漂う空気までもが豊かな表現力でつづられている。
 
特に登場する女性キャラクターを表す時は筆が冴えまくる。

紫苑の宮

「何よりも印象的なのは、うっとりするような、その大きな目だった。
すでに睫毛が生え揃っており、瞬きをする度に、ぱちぱちと音が鳴りそうだ。
浜木綿が父親似と言った通り、顔のつくりは金烏にそっくりだったが、その目元の鮮やかさには、母親の血も感じられた。
こぼれ落ちそうな瞳は、あまりの黒さに、瑠璃色に輝いて見える。
どんな宝石だって、こんなすばらしい煌きは持っていないだろう。」
 
白珠
 
「何べんも梳ったのであろう、一本一本が細い黒髪は、綺麗に切りそろえられている。黒檀の髪に縁取られた顔は小さく、垂れた目尻が愛らしい。  そしてなにより素晴らしかったのは、その肌の色の白さであった。一度も日の光を浴びたことがないかのような、いっそ神々しいまでの色白である。」
 
澄生
 
「頰は血色を透かして明るく、その唇は紅色の蓮に乗った露のように瑞々しい。つやつやと、文字通り射干玉のような輝きを放つ黒髪は、長ければ天の河を思わせるほど豪奢であったに違いないが、今は首筋にもかからない、痛々しいほどの短髪だ。」
 
どの文章もキラキラと輝いている。
 
中でも私の一番のお気に入りは千早の妹、結を紹介した文章。

「千早の影から顔を覗かせたのは、女──というよりも、少女だった。  
随分と小柄な娘だ。  
手足と首が、今にも折れてしまいそうなほどに細い。特別整った造作をしているわけではなかったが、表情はやわらかで、笑みを含んだ口元は優しくほころんでいる。そっと伏せられたまつ毛が黒々とした影を落とし、まろい目蓋が、今にも咲きそうな水仙のつぼみにも似ていた。」
 
初めてこの文章を読んだとき、作者が慈しむような愛情をこの結という少女に注いでいるのを感じた。そっと触れただけでも壊れてしまいそうな、儚さと優しさを纏った少女が瑞々しくイメージされる。
作家の描写力にはいつも感嘆する。

次刊の希望


 
個人的願望だが、次刊は是非『追憶の烏』から『望月』の間を書いて欲しい。
雪哉が雪斎になるに到った過程を知りたい。
 
浜木綿と紫苑の宮をどう逃亡させ、四家の貴族をどう束ね、どう信頼を得、博陸侯として認められたのか。
特に一番に癖がある南家の融の支持をどう得たのか。
 
融は長束が反若宮だと信じて疑っていなかった。長く騙されていた。
貴族はプライドも高い。
真実を知った融が長束や若宮陣営に対し激しい怒りと不信感を持たないわけがない。
その上、雪哉は奈月彦の懐刀。なのに彼が暗殺された後、呆れるくらいの早さで貴族側に寝返った雪哉。(私はそう思っていないが、形ではそう見える)
主を裏切る者は新たな主も簡単に裏切る、と当主なら当然そう思ったはずだ。そこを雪哉はどう説得したのだろう。気になる。
 
そして、東家にいた小梅や、多分、藤波を洗脳したプロの殺し屋早蕨がどんな動きをしたのか。。。

『追憶の烏』から『望月』の間が第二部の一番の核となる物語があるはず。どんな内容だろう。
そこをつまびらかにしてくれれば、雪哉の本当の目的が見えてくる。『望月』『楽園』の数々のエピソードの謎解きのヒントとなるはず。
書いてくれるかな。書いて欲しいな。書いてくれたら嬉しい。
 

コミカライズ『烏は主を選ばない』の谷間の雪哉


 
コミカライズ『烏は主』3巻目で谷間に質草として働かせられていた雪哉。だが、助け合いながら和気あいあいと生きている人々の生活を目の当たりにした雪哉の表情は、なぜか暗かった。
 
雪哉は谷間に堕ちていったのは、その人の自業自得と思っている。
人以下の生活を当たり前に受け入れている人、本来の生活に戻りたくても戻れず泣きながら道端で寝てしまう人、ここの生活がオレにはいいと言う腕のない人、雪哉は谷間で助け合って生きている人達に対しても心のどこかで、この生活から抜け出る努力もしないであきらめている人々と思っていた。
そんな気がする。
 
だから妊娠し中央の花街から谷間に逃げてきた遊女が、子どものためにと谷間の婆に助けを訴えるのを聞いてつい
「自分が産みたいから、自分が助かりたいから、全部、自分のためじゃないですか」「(こうなってしまったのも)それはあなたの自業自得じゃないですか」と言ってしまう。

雪哉は自分の出生を常に心の奥底で嫌悪しているため、子どものためという理由付けに反発し思わず嘴を挟んでしまったのだろう。
その結果、「あんたなんにも見えてない! いや、うわっつらしか見えてない!」と遊女に魂の叫びを浴びせられる。

雪哉は自分の力だけではどうすることもできない人生や運命を抱えたまま、抜け出せない底なし沼のような場所で生きている人達に、「自業自得」はあまりにも無責任で突き放した言葉だと思い知らされる。
 

『烏の緑羽』で



コミカライズで雪哉が言う「自業自得」発言の補足説明を小説『烏の緑羽』で見つけた気がする。 
翠寛の口から清賢が谷間をどう思っているか語られていた一説がそうだ。

「はい。谷間が引き受けてくれることに甘えて、そこに行かざるを得ない者を自業自得と断ずるのは貴族の怠慢に他ならないと」  
「頑張った者が貴人に取り立てられ、怠け者が谷間に落ちる、というのは噓だ。」
「役割をある程度は認めつつも、清賢は谷間を大いに嫌っていた。何より、自分の立場でその存在を肯定するのは、単なる甘えであると考えているのだ。」

と。
為政者と持てる者たちは、忘れ去られたり捨てられた人をなかったこととして切り捨てるのではなく拾い上げるべき、少なくともその努力を放棄してはいけない立場にある、と清賢は言いたかった気がする。
 
それは作者の思想でもある。

そうした意味では、『烏に単は似合わない』後半で気になるエピソードがある。
若宮が貧しい家のない山烏が夜になると、烏のまま木に止まり寄りそうように夜を明かす生活をしているが、辛くはないという話しを白珠たちに披露していた。
愛があれば苦しさもしのげるという美談として。

清賢の言葉を借りれば、山内の長である若宮の立場でそれを肯定してはいけない。
本来は家もない貧しい山烏たちが辛い、辛くないに関わらず、雨風しのげる家に住まわせる政をする立場なのだから。
『烏に単は似合わない』でこの箇所を最初に読んだ時、私も若宮が言うのはちょっと違うかもと思った記憶がある。

 
とりま、谷間を雪斎が強制的に整理した理由は何だろう。
『追憶』と『望月』の間にその答えがあるはずだ。


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