雨の日こそお礼参りへ…
氏神様へお参りしました。ちょっと久しぶりかな。2〜3日に一度はお参りしてるので、今日はそれでも5日ぶりかな。以前に百度参りを行なってました。必ず、意地でも継続して百日間通い続けました。もともとひとつの願いがあってそのためでしたが通ううちに願いを増やしたりもしました。
初志。はじめに願ったことはあっという間に叶われました。通っている間にじんわりと感じるものがあって、たぶん願うことは叶えられるのだろうなと感じられました。
それで、そんな僕の通う様子に触発されてもし始めるような方がいればその人の願いも叶うようにと願いました。
願いが叶う。そのためにはひょっとすると本人の強い願いよりも、誰か他人が願ってくれることの方が効くような気がします。そういう意味で利己よりも利他の方に本来の恩恵はあるのだなあと、これは個人的に思いました。それは僕自身の願い事の内容も割とそうだったから。
今日はその百度参りを終えて何日目か分からないのですが、同じく百度参りを行う方に向けて叶われますようにとの願掛けをこのタイミングで手放します。
自分でその願掛けをしたのを忘れていたというのが理由です。思い出してしまいました笑。こういうのは掛けっぱなしで締め括らないというのはあまりよろしくありません。強く念じるとか願を掛けるというのは、あまりそこに意識を向けるとあまり良くなくて、そういう意味で忘れてしまっていたことは、それなりに効果があったかも知れません。
気持ちを込めて、願いを自分の中でしっかりと練り上げる、そうしたらそこから気持ちを引き揚げる。行動だけをしっかりと持続させ、気持ちとしての執着は段々と薄まるように。
よく分からないのですが、こういうある意味スピリチュアル的なことを実践してみて、ある程度そこに時間を費やすことで何が起きているのかということにいま少し関心が出てきました。
未知のことを通じて得られることには色々な意味があるでしょうし、ヒントも見出せるのではないかと感じます。また、前例のない未知なことをわざわざやってみることには、人生が同じことの繰り返し、その中で次第に年老いるのみという「予測された未来」からレールを反らせることができるのかも知れません。それが僅かであっても。
思い起こせばもう短くない時間が経過しましたが、2011年から僕にとっての非日常は始まりました。あの日から僕のレールはズレたんじゃないかという気持ちがどんどん強くなりました。13年もあればそんなことをたくさん想像する時間がありました。
いま生きている世界で現実からズレていけば、そのうち元の平和で無難な世界に戻れるんじゃないだろうか。まあ人生は一度きりで、今の世界と「元の世界」を比べることはできないし、想像することには意味はないのかも知れません。
所謂「並行世界」をテーマにした作品はたくさんあります。それは現実に違和感を覚えていたり、現実に馴染めないと感じている身にとっては非常に興味深いテーマです。
今日は休日で、天気もやや荒れ模様なのでそんなことを思っているだけかも知れませんが。
とくにオチはありません。徒然と〜