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結城十維先生『ふつおたはいりません! 崖っぷち声優、ラジオで人生リスタート!』読書感想文

 たった一言で親を泣かせる魔法の言葉がある。
 声優になりたい、と伝えることだ。
 きっとこの世の終わりみたいな顔をしてくれるだろう。
 いっそマフィアか山賊になりたいとでも言ったほうが、親としても臆することなく反対できるので喜ばれるかもしれない。

 朝。
 リビングにあるテレビの中で、顔は知っているけど名前は知らない女優が悲痛な表情を浮かべて派手に泣いていた。
 虫歯を一本抜くつもりで歯医者にいったのに、間違って健康な歯を全て抜かれてしまったような面持おももちである。
 ドラマでも流れているのかと思えば、謝罪会見のようだ。
 SNSで不適切な発言をしたらしい。
 一体、どんな人生を歩めば介護職にこうだなんて思えるんだろう、そんな不自由な生き方に意味はあるのだろうか、という趣旨のショート動画をアップしたそうだ。
 一体、どんな人生を歩めば、そんな発言をする様をわざわざ動画に撮ってアップロードしようだなんて思えるんだろう。
 女優というセリフから衣装、身振りまで全て用意された場でしか活躍できない不自由の極致みたいな立場の人がそれを言うのも何だか味わい深い。
 そんなことを思いながら朝食を済ませ、制服に着がえて家を出た。

 通学路の途中にあるコンビニの前を歩いていると、店の自動ドアが開いて、ミシュランのマスコットキャラみたいに丸々太った男子小学生がミシュランのマスコットキャラを分解したような大きな肉まんを嬉しそうに両手で持って出てきた。
 そういえばもう秋で、肉まんのおいしい季節。
 私は少年に近づき、その肉まんを横取りして、ほおばる。
 問い。子供から奪って食べる肉まんはおいしいか?
 答え。おいしい。
「あ、またお前か! 返せよ!」
 少年の言葉を無視して、私は通学路に戻る。

 肉まんを食べ終えたころ、前方に大正時代から変わらぬたたずまいでここにありますという風貌ふうぼうの古風な一軒家があらわれた。
 その玄関ドアの横には真新しいインターホンが設置されている。
 おばけでも入居拒否しそうな古めかしい家屋につけられた最新の通話装置の姿は、お寿司をケチャップで食べるようなミスマッチを感じる。
 だから思わず押してみる。
 クイズに正解したような音が鳴る。
 もう一度押してみる。楽しいので何度も押す。
 やる気のないオーケストラのような不協和音が鳴り響く。
 扉の奥から、どしどしと怒気をまとった足音が近づいてくる。
 扉が強く開かれ、大正時代から生きてますといわんばかりのおばあちゃんがすさまじい剣幕で怒鳴る。
「こら小娘! またお前か! まったくお前は──!」
 そこいらの学生なんかよりよっぽど元気そうな姿を確認して、私は通学路に戻る。

 高校の校門をくぐり、昇降口でシューズに履き替え、教室に向かう。
 教室に入って手前から二列目、一番後ろが私の席だ。
 そして私の右隣の席には机はあるけど椅子がない。
 理由は簡単、隣の席の子に椅子は必要ないから。
 彼女は音もなくあらわれ、机に近づく。
 両手で左右の車輪を丁寧に回しながら、ほどよい距離で車椅子をとめた。
「おはよう」
 綺麗だけど小さな声。
 顔はこっちを向いていないけど前の席には誰もいないし右隣は壁なので、たぶん私に言っているのだろう。
「おはよう」
 私も相手を見ずに、そっけなく返す。

 昼休み。
 他のクラスにいる友達と中庭でお弁当を食べて教室に戻ると、彼女は栄養補給のみに焦点をあてたゼリー飲料を飲み終えたところだった。
 私は教室内をぐるりと見渡す。
 みんな、スマホやおしゃべりに夢中でこっちを見てない。
 私はそっと彼女に左手を差し出す。
「昨日、おこづかいの日だったよね? 出して」
「…………」
 彼女は沈黙の壁を建てる。
 私は左手を羽のようにひらひらさせながら、もう一度言った。
「出して」
 不快な感情で顔を歪めながら彼女は鞄の中から財布を取り出し、五千円札を抜いて私の手のひらにのせた。
 私はそれを乱暴に受け取り、スカートのポケットに押し込む。
「いいかげんにしてほしいんだけど、私だってお金、いるんだよ?」
 周りに聞こえないように抑えているけど、怒りをあらわにした声。
「どうせスマホのガチャにしか使わないんでしょ?」
 私の言葉に、彼女は歯をぎしりと鳴らす。
「……もうやめてよ」
 返答に困ったのか、情に訴えようとする。
 当然、そんなことは私に通用しない。
 私はささやく。
「へえ、命の恩人なのに、そんなこと言うんだ」
 私は彼女の背後に回り、車椅子の手持ちハンドルを掴んで、ゆっくり前後にする。
【揺するには、体をぐらぐらと動かす、お金をかすめとる、という意味があり、どちらも同じ『揺する』という文字が使われる】
 ずっと前に誰かから聞かされた無駄知識トリビアが頭をよぎる。
「何年前の話だよ、それ」
 四年前だ。
 しかし私はそれを口にしない。

「失礼しまーす」
 そう言っておけば無礼を働いても許されると思っているのか、進行方向にある机や椅子や生徒の脚を蹴りながら、隣のクラスの悪役令嬢さんがとりまきをひきつれて私に近づいてきた。
「体操服かしてね」
 と言って、机にかけておいた体操服入れを奪われた。
「どうぞ」
 私は笑顔で応じる。
 もちろん作り笑顔だ。
 悪役令嬢さんの言いなりになっても損をするだけだけど、逆らったところで得をするわけでもない。
 経験から学んだ処世術だ。
 遠目から見れば双子と間違われるくらい私と悪役令嬢さんの体格は似ている。だから彼女は私の体操服をおめしになり、その後、私は砂と汗と悪役令嬢さんのどぎつい残り香のしみついた体操服の着るのだ。
 目的のものを入手した悪役令嬢さんはその美脚と校則違反の真っ赤な靴下を見せつけるように、すぐそばにある車椅子に蹴りを入れる。
 そこに座っている彼女ごと、ぐらっと揺れる。
 障害者はやめてやんなよ。注意するではなく、からかうようにとりまきが笑う。
「いやいや、差別はだめでしょ? でしょ?」
 悪役令嬢さんは政治的正しさを主張するように声を上げた。
 世はまさに、多様性、公平性、包括性の時代である。
 障害者だからといって、暴力を免除されるなどあってはならないのだ。
 率先してそれを示すように、悪役令嬢さんはもう一度、車椅子を蹴った。
 さっきよりも力が込められていたのか、彼女は体ごと強く机とぶつかり、机の中から本やノートや教科書がこぼれた。
 それを見て悪役令嬢様ご一行は、笑いながら教室を後にした。
 高貴な方の笑いのツボはわからない。
 ちなみに、悪役令嬢さんは令嬢ではあるけれど、悪役ではない。
 純粋に、ただの悪人だ。名前は知らない。知りたいとも思わない。
 隣の彼女は車椅子を微調整して、姿勢を低く、手を伸ばし、床に転がった本などの回収を試みている。
 あきらめがわるいな、と私は思った。
 ふと、離れた場所から視線を感じたのでそこに目を向けると、教室のすみっこで一人の女子生徒が小人用のフライパンみたいに大きなレンズのついたスマホをこっちに向けていた。
 撮影に特化したモデルで、最新のiPhoneよりも高価なやつ。
 私はその子に近づくと、ホームビデオでも披露するみたいに隠し撮りしていた映像を見せてくれた。
 悪役令嬢さんの登場から退場までの一部始終が録画されている。
「あの人、今日も、お綺麗だった」
 うっとりした瞳で、そんなことを口にする。
 説明するまでもなく、この子は悪役令嬢さんのファンなのである。
 悪役令嬢さんの暴力など目もくれず、美しさに心を奪われている。
 悪役令嬢さんの悪行は、この子にとってはどうでもいいのだろう。
 むしろ、悪役令嬢さんの動きが撮れて喜んでいるのかもしれない。
 怪獣マニアにとって、ゴジラにはおとなしくされるよりも、派手に街をぶち壊してほしい、みたいな心理とでもいえばいいのか。
 私には理解できないのでさっさと席に戻ると、隣の席の彼女は床に散らばったものを拾い終えたようで、黙ってスマホを操作していた。

 学校が終わり、スマホを見ながらバイト先に向かう。
 興味のないオーディションや、あなたにはこんな職業がぴったりですよという求人情報の紹介などがスクロールされていく。
 こういうのは日ごろ見ているサイトを分析して、自分にぴったりのものを提案しているというのは本当だろうか。
 商店街に入ると、人だかりができていた。
 どこかの店が閉店セールをやっている。
 奇抜な色や柄の洋服や雑貨は90%OFFのタグがついても、まだまだあり余っている様子。
 周囲は私と同世代の中高生ばかりで、その子たちは今朝の号泣会見をしていた女優さんについて言葉を交わしていた。
 一つの事実。あの動画は女優さんが自らアップしたのではなく、女優さんの知人のみに公開したものを、その中の誰かが裏切った、あるいは面白がってSNSに公開したのだそうだ。
「そういうのって、絶対最後はバレるよね」
「王様の耳はロバの耳、みたいだよね」
 その何気ない会話は、私に天啓を与えた。
 私の母校である中学の制服を着ている少女たちに、お礼のハグでもしてあげようと思ったものの、頭のおかしな高校生に絡まれたと怖がられるのもいやなので、タイミングよく目に飛び込んできた派手な色の日用品を一つ買って、その後、書店に寄って本を一冊購入して、それを読みながらバイト先の居酒屋に入った。

「こちらの日本酒、特注なんですよ」
 私からの説明に常連のお客さんは気をよくして、もう一杯注文をくれた。
「ねえ、今のなに?」
 バックヤードに戻ると、バイトリーダーに呼び止められた。
「今のって?」
「お酒が特注だとかいうやつ。普通にいつもの安いお酒だけど?」
「もちろん。わかってますよ」
 私の返答に、バイトリーダーは首をかしげた。
「じゃあ、どうしてあんなこと言ったの?」
「……ちょっと、言ってみたくなって」
 私の返答に、バイトリーダーは逆方向に首をかしげる。
 首を左右に振るのは体調を整えるストレッチにもなるという、ネットから得た知見を思い出した。

 一週間後、朝。
 テレビではいつぞやの女優さんが、自分がいかに愚かだったかを痛感し、恥じて、反省した結果、介護職へのサポートや寄付をしていく旨を発表していた。
 アピールだ、偽善だと、私ですら瞬時に思いつく疑念を、マスコミの方々は自分たちだけがひらめいた名推理であるかのようにかかげ、それをゴムボールみたいにぶつけている。
 チャンネルを変え、私は制服に着替えて家を出た。

 コンビニの前。
 丸々太った少年が、ソフトクリームを持って店から出てくる。
 肌寒くなってきたのに冷たいものとは、元気がいいな。
 せっかくだから、もらってあげよう。
 遠慮なく奪って、口をつける。
 なめらかな舌ざわり、口いっぱいに広がる芳醇ほうじゅんな甘さ。
 レベル高いな、コンビニのソフトクリーム。
 少年の口から小学生が一生懸命考えた罵詈雑言が飛び出すが、痛くもかゆくもない。

 古ぼけた家に近づくと、私は戦慄せんりつした。
 玄関の前で、老婆が刃物を構えてたたずんでいたからだ。
 地図にない村を舞台にしたホラー映画でしか見ない光景だ。
 そんなおばあさんと、目があってしまう。
「おい、小娘──」
 A.お前を刺身にしてやろう。
 B.お前を三枚におろしてやろう。
 C.お前をこの包丁の錆にしてやろう。
 どの選択肢が選ばれるかは不明だけど、物騒なものからは距離をおくにかぎるので、そそくさと学校に急ぐ。

 教室に入ると、彼女の姿はまだない。
 用はないので、どうでもいい。
 私は窓際で最新のiPhoneより高価なスマホとにらめっこをしている子に近づく。
 本当ににらめっこなら惨敗決定のにやけた顔で、その子は動画サイトを見つめていた。
 そこに映っているのは、悪役令嬢さん。
 悪役令嬢さんは今をときめくYouTuberでもあるのだ。
 自称、現役女子高生インフルエンサーとのことだが、登録者数160人でインフルエンサーを名乗るのは、なかなかの度胸だといわざるをえない。
「ねえ──」私は相手の耳元でささやく。「あなたにとって悪くない話があるんだけど、興味ない?」

 そして放課後。
 校内の死角ともいうべき、人気ひとけのない第二準備室の前。
 一人でスマホをいじっていると、微かな音と夕陽とひきつれて、車椅子の彼女がやってきた。
「こんなとこに呼び出して、どうしたの?」
 私の手前でとまって、彼女は訊ねてくる。
「ちょっと、言いたいことがあってね」
「教室じゃダメなの?」
 当然の疑問だ。同じクラスで席は隣なのだから。
「…………」私は黙秘する。
「ねえ、私たち先月からちょっとぎくしゃくしてるけど、そろそろ──」
「この前の日曜日、何してたの?」私は彼女をさえぎった。
「え?」一瞬、固まってから「それは、ふつうに、家にいて──」何かをはぐらかすように、声が戸惑っている。
「結局、オーディションいかなかったんだ」
「それは……知ってるでしょ、理由」
「じゃあ、どうしてまだこんなの持ってるわけ?」
 私は彼女から鞄を奪いあげ、中から一冊の本を取り出す。
「それは──」
「好きな作品のアニメ化が決まって、しかも一般人からもオーディションで役を選ぶって発表されてこれは運命だとか騒いでたのに、結局、逃げてんじゃん!」
「逃げたんじゃない! 行けなかったの!」
 珍しく、激しく食らいついてきた。
「それを逃げたっていうんだよ!」
 勢いでは負けない。私は手にしていた本を遠くに投げる。
 あっ、と声をこぼしたあとで、何するの! と彼女は叫ぶ。
「うっせえよ!」
 私は一切の遠慮なく彼女を車椅子ごと蹴り倒す。
 ショートケーキを横転させたらそうなるであろうイチゴのように、彼女は車椅子から飛び出して、床にうつぶせになる。
「な、なにするの……?」
 顔をこっちに向ける。その声と瞳は、本気で怯えていた。
「どうでもいいでしょ。っていうか、あの本、拾わなくていいの? 大切なんでしょ? あ、そっか。動かせないんだよね、その足」
 私は、けらけら笑う。
 彼女の瞳から、じわりと涙が。
「いいなあ、障害者様は。そうやって困って泣けば、みんなが助けてくれるもんね。だけどさあ──」
 私は一歩近づき、彼女の小さな顔を踏みつける。
「そういうのマジでうざいんだ。お前ひとりのせいで学校のみんなが迷惑してるっていい加減気づけよ。それからもういっこ気づけ、障害者は声優になれないってな!」
 つまさきでほほをえぐる。
 安心してほしいことが一つある。
 シューズはちゃんと脱いでるし、靴下は新品だ。
 鋭い気配につらぬかれ、そちらに目をやると、小人用のフライパンみたいな大きなレンズがこちらを凝視していた。
 私の視線に気づくと、それは逃げるように去っていく。
 終わったな、と私は思った。

 翌日、想像以上に学校はパニックになっていた。
 敷地の外にはマスコミや動画配信者がたむろして、校外でも校内でも誰もが二人の少女を話題にしていた。
 しかし残念なことに、渦中の二人は登校していなかった。
 車椅子の彼女と悪役令嬢さん。
 ここまでする人だと思わなかった。
 いつかこうなると思ってた。
 大丈夫かな、あの子。
 非難と心配が飛び交う中で、私はスマホを取り出して適当なニュースサイトに飛んでみる。
【都内の女子校で障碍者生徒への悪質なイジメ動画が拡散】
 まるで探せば悪質じゃないイジメが存在するみたいな文面だけど、まあいいだろう。私はそれをタップした。
 悲惨さと義憤ぎふんあおる文面と共に一本の動画が添えられていた。
 車椅子の彼女に暴言と暴力を浴びせる不届きもの。
 車椅子の彼女の顔はモザイク処理がされているけれど、これはニュースサイトが独自に施したもので、彼女のかわいい顔を拝みたければ動画サイトに無修正のものがいくつもアップされている。
 ただし、世間が最も知りたいであろう犯人の声と上半身にはオリジナルの動画にもぼかしがかけられ、判別できないようになっていた。
 ところが犯人は大きなミスをしていた。
 車椅子の彼女を踏みつけるその足に着けられた赤い靴下は校則違反であり、その学校で履いているのは一人だけで、誰かが悪役令嬢さんに辿り着くまでに時間はかからなかった。
 どこで買おうか迷っていたところ、閉店セール中の店で見つけられたのは運が良かった。
 90%OFFだったし。
 今この瞬間、どこかの山が噴火してもトップニュースは揺るがないと思えるほど、どのニュースサイトもこの事件を取り上げ、どうやら海外でも話題になっているらしい。
 スマートフォンに通知が届く。
 最近登録した動画チャンネルに新作がアップされたようだ。
 気になってそこに飛んでみる。
 悪役令嬢さんのチャンネルだ。
【世間をお騒がせている件につきまして】
 そんなタイトルと苦悶の表情を浮かべた悪役令嬢さんがいる。
 虫歯を一本抜くつもりで歯医者にいったのに、間違って健康な歯を全て虫歯にされてしまったような面持おももちである。
 私はこれまでいくつも間違ったことをしてきました。だけど昨日、障害者の方にあんなひどいことをしたのは私ではありません! 本当です! 信じてください!
 涙を流しながら、そう何度も訴えた。
 例え全世界がその言葉を信じなくても、私だけは信じる。だって、犯人は私だし。
 その後も悪役令嬢さんは障害者の方、障害者の方と、気を使った言い回しを連呼した。
 今の悪役令嬢さんに紙とペンをわたしてそこに障害者と書いてとお願いすれば、きっと障がい者と書いてくれるだろう。
 ときどき見かけるあの配慮はなんだろう。
 ひらがなをまぜるだけで現実が良くなると本気で信じているのなら、せん争、さい害、びょう気、ひん困、さ別も仲間に入れればいい。個人的には、進路そう談も加えてくれたら助かる。
 悪役令嬢さんの必死の説得もむなしく、その直後に誰かが投稿サイトにアップした一本の動画が全てをかき消した。
 先週この教室で、差別反対を叫びながら車椅子を蹴とばす悪役令嬢さんの雄姿は、何よりも雄弁に悪役令嬢さんの本性を語っていた。
 みんなに信じてもらいたい嘘があるとき、その嘘を真実のように語るよりも、たくさんの真実の中にその嘘をまぎれ込ませるほうが有効なのだ。
 ここでネタバレを一つ。結局この後、悪役令嬢さんは学校をやめることになる。
 自称、現役女子高生インフルエンサーだった悪役令嬢さんは現役女子高生ではなくなったけれど、チャンネル登録者数は一日で20万人を超え、インフルエンサーになることはできた。
 それなのに悪役令嬢さんは、チャンネルを削除してしまった。どうしてだろう。 
 何はともあれ、これで晴れて私は清潔な体操服で体育ができるようになったのでした。
 めでたし、めでたし。

 それはさておき、インターネットは大いに盛り上がっている。
「みんな、知ってるか? 実は体が不自由でも声優になれるんだぜ?」
 フォロワー数、数百万人の人気声優さんのそんな投稿を皮切りに、他の人気声優さんも追随し、苦労や困難を乗り越えた過去のエピソードや前向きなメッセージが連鎖していく。
 そのとき、スマートフォンからの通知。
 意外な相手からのメッセージだった。

 放課後。
 街の死角ともいうべき、人気ひとけのない公園。
 一人でスマホをいじっていると、微かな音と夕陽とひきつれて、車椅子の彼女がやってきた。
 私は訊ねる。
「こんなとこに呼び出して、どうしたの?」
 彼女は答える。
「ちょっと、言いたいことがあってね」
「教室じゃダメなの?」
 同じクラスで、席も隣なのに。
「いけるわけないでしょ」
 確かに。
 校門付近では今もまだ、ここをどこかのテーマパークと勘違いしているのではないかと気の毒になるほど人であふれていた。
 おもむろに、彼女はほほを手のひらでなでる。
「どうしたの? 虫歯?」
「昨日、どこかの誰かさんに蹴られたところがまだ痛い」
「へえ、ひどいやつがいるんだね」
 じゃあ、犯人は私とは違うな。
 あれはつまさきで優しく押さえただけだし。
 すると彼女は突然、抑えていた感情を決壊させた。
 歯医者に連れていくといわれた子供のように泣きはじめたのだ。
 泣きじゃくっている。
「どうしたの?」
 さすがに動揺してしまう。
「あのね、母さんが言ってくれたの……」
「なんて?」
「……目指していいって、声優。納得するまでやってみればいいって、応援してくれるって……!」
 彼女の上半身が私をめがけて倒れてくる。慌てて受けとめる。
 そして、さんざん泣いたあとで、顔を上げる。
「どうして? なんでここまで私にしてくれるの?」
 その問いかけに、私はあきれる。
「何度もいってるでしょ? 命の恩人だって」
「私があなたを助けたのなんて大昔のことでしょ?」
 四年前を大昔と定義するかどうかは議論の余地があるかもしれない。
 だけど私はまだ、昨日のことのように思い出せる。

 自殺者の六人に一人はその理由が不明。
 経済、健康、社会的、私生活にも問題が見当たらないのに死を選択する人は少なからずいる。
 海外の医療機関からの発表に首をかしげる人々に私は首をかしげた。
 なぜだろう。
 人は理由もなく生まれるのに、なぜその死についてはレポートを書いてマニアを納得させる義務でもあるかのように理由を求められるのだろう。
 少なくとも、中学時代のある日、私は理由もなく死のうとした。
 駅のプラットフォーム。
 黄色い線の内側まで下がりましょうというアナウンスを無視して、外側で電車の到着を今か今かと待ちわびていた。
 だけど電車の到着より先に、私は別の車にかれて、黄色い線の内側に弾き飛ばされた。
 仰向けに倒れ、上半身を起こすと、私を轢いた車椅子の少女は開口一番、こういったのだ。
「あ、あなたには──黙秘権がある」と。
 意味がわからず目をしばしばさせる私に、彼女はつづける。
「あなたには黙秘権がある──海外刑事ドラマなどでよく耳にするこれは『ミランダ警告』という!」
「は?」
 残念ながら、私にはこれ以上の言葉が出てこない。
「フランス産の果実であるラ・フランスはフランスでは既に全滅して世界中で栽培しているのは日本だけ」
「貯金と預金の違い。貯金は郵便局にお金を預けること、預金は銀行にお金を預けること」
「缶切りの発明は缶詰が発明されてから50年後である」
「マッチよりライターのほうが先に発明されている」
「ピーナッツはナッツではない」
「機動戦士ガンダムの劇中に機動戦士という言葉は出てこない」

 車椅子の彼女からとめどなくあふれる無駄知識トリビアの数々。
 よく見れば、彼女の右手に一冊の本。そこに書いてあることを読み上げているようだ。
「な、なんなの?」
 明らかに故意に突撃されて跳ね飛ばされたことも忘れ、私は彼女に真意を訊ねる。
「あのね、私のこの脚、治らないんだって。ずっと車椅子なんだって!」
 その脚を叩きながら、まるで自慢するかのように自暴自棄に吐き捨てる。
「それは……お気の毒に」
「それでね、病院の先生がこういう話を聞かせてくれたの。私よりもっと重い症状の人でも、一人で高い山に登れたっていう話なんだけどね、それ聞いてたらどんどんムカついてきて──なんか、自分より下がいるんだからくよくよするなって言われてるみたいで、それでイライラして、とにかくその話を頭から追い出したくなって、いま本屋さんでこれ買ってきたの。象はジャンプができない!
『今日から会社や学校で人気者! 愉快な無駄知識トリビアの世界』
 彼女は本の表紙を私に向けてきた。
 幼いころから色々なものを入れてきた道具箱をひっくり返したみたいに、様々な情報を一気に浴びせられた結果、そうなんだ、象ってジャンプできないんだ。それは知らなかったな──という結論だけが頭のすみっこに残ったのであった。
 結局、私は死にぞこない、どういうわけかその後も車椅子の彼女との関係はつづき、ともだちといって差しさわりのない間柄になっていた。

 声優を目指している。
 同じ高校に進学すると決めた数日後、どこか照れた様子で彼女が明かしてくれた。
 私はそれが何か知らなかった。
 アニメのキャラクターの声を担当したり、洋画で日本語の吹き替えをする役者なのだそうだ。
 アニメのキャラクターの声は機械で作っていると思い込んでいた私にとって、それは新鮮な驚きだった。
 高校を卒業したら養成所に入ると決めているそうだけど、お金がなかなかたまらないとなげいている。
 確かにその体ではバイトも限られるだろうし課題は少なくない気もする。
 だけど彼女の家庭が比較的裕福なのも知っているし、お金に困ることはないのではと思ったものの、ときどき突発的な出費に頭を悩ませている姿も見たことがある。
 例えば、今がそうだ。
「どうしようかな……あと三千円使っちゃおうかな……」
 スマホを見つめながら、そうこぼしている。
「どうしたの?」
 問いかける私に、彼女はスマホの画面を見せてきた。
 こういうキャラクターの声になりたいんですとアピールしているのかどうかは不明だけど、アニメ調の可愛らしい女の子が表示されている。
「この子、今日までの期間限定で、もう一回ガチャすれば出る気がするんだけど、どう思う?」
「…………は? そんなのにお金使ってるの?」
 障害者じゃなければ殴っているところだった。
「だってほら、いいキャラをお迎えできたらイベントで有利だし、可愛いし、それにレアキャラ引けたら嫌なこととかも忘れられて──いた!」
 思わず手が出てしまった。こいつ、足よりも頭に問題があるんじゃなかろうか。
 私は相手をった手のひらを、そのまま彼女の前に差し出す。
「とりあえず、有り金全部出して。今日から私があんたのお金、管理する」
「え? どうして?」
「声優になりたいの? それともクズになりたいの?」
 そう言われて、しぶしぶ彼女は財布の中身を明けわたした。

 とんでもないことが起きた!
 と彼女からメッセージとURLが届いたのが一年前。
 タップすると、とある作品のアニメ化が決定したようで、エキストラの声を一般人からも募り、オーディションで決めるというものだった。
 それは彼女の大好きな作品であり、これは運命かもしれないと、はしゃいでいた。
 彼女を応援している気持ちに嘘はないけれど、そもそも声優としての技量を知らないし、こういうオーディションってかたちだけのデキレースなのでは? という根拠のない疑念がぬぐえなかった。
 そんな私の不安などものともせず、彼女は指定されたセリフの録音データを何度か送り、一次審査を突破して、二次審査を通過して、三次審査を勝ち進み、ついに最終オーディションへの切符を手にしたのだ。
 オーディションは会場におもむく必要があり、ついてきてほしいと頼まれた。
 断る理由など、どこにもない。
 案外、このままデビューもありえるのでは?
 どこか確信にも似た期待があった。
 それなのに、彼女のほうから断ってきたのだ。
 ある日、オーディションのことは忘れてほしいと言ってきた。
 私は自分のオーディションを奪われたかのように相手に説明を求めた。
 親に、反対されたらしい。
 最終オーディションまで進んだとき、はじめて彼女は親に将来の夢を、声優になりたいのだと伝えたそうだ。
 そこで親に、反対されたらしい。
 それどころか、泣かれたらしい。
 お願いだから、そんな夢はあきらめてほしい。普通の人・・・・だって難しい世界なのに、あなたに居場所があるとは思えない。
 精一杯、オブラートに包んだ表現で、そのような説得を受けたようだ。
「なんか、目が覚めちゃったんだよね、私」彼女はつぶやく。「だってほら、最近の声優さんって歌って踊るのが当たり前だし……私、歌はうたえても踊るのは無理だからね……」
 車椅子を撫でながら、おどけて見せる。
「なにそれ。嘘ならもうちょっとマシなこと言ってよ。別に踊らない声優だっているんでしょ?」
「そりゃ、いるけど……」
「とくかくオーディションには出ようよ。合格すれば親だって認めてくれるでしょ?」
「だからもういいって」
「よくない! 絶対連れて行くから!」
「そんなに行きたいなら一人で行って、あなたが代わりにオーディション受けてきてよ!」
「行くわけないでしょ! 私、声優なんて興味ないし、アニメの声なんて誰がやったって一緒でしょ!」
「一緒じゃないよ! 全然わかってない!」
「だったら教えてよ! 声優になってわからせてよ!」
 これまでの人生で、私はケンカというものをやったことがなかった。
 ケンカする人の気持ちもわからなかった。
 やっとわかった。
 例え相手との関係がどうにかなったとしても、それでも伝えたい想いがあるからだ。
 とにかく言いたいことは言った。
 最後に「オーディションには行きなさいよ」とだけ残して、私は彼女から去った。
 まあ、学校に行けば席は隣同士なんだけど。

 結局、オーディションに彼女は参加しなかったようだ。
 本気であきらめたのだとわかった。
 ところが、そうではなかった。
 いつだったか悪役令嬢さんに蹴りを入れられて、彼女の机からこぼれたいくつかのもの。
 教科書、ノート、本。
 あきらめの悪いものを見つけてしまった。
 だから私は彼女を第二準備室の前に呼び出して、暴力を振るった。
 私には世間に見せつけたいものが二つあった。
 ひどい仕打ちを受ける彼女。
 そして、あきらめの悪いもの。

「こちらの日本酒、特注なんですよ」

 オーディションではこのセリフを読み上げることが求められていた。
 アニメ化の決定した原作本の194ページに出てくる、名もなきお姉さんの短いセリフ。
 最終オーディションまで進んだ未来の声優志望者たちは原作本の194ページに、さぞ立派なしおりを挟んで当日にのぞんでいたことだろう。
 ちなみに、彼女のは、こうだ。

 いつだったか、彼女から頼んでもないのに尊敬している声優のエピソードを聞かされたことがある。
 その声優がまだ、名前のある役をもらえていなかったころ。
 当時、人気小説のアニメ化が決まり、オーディションがあった。
 オーディションでは周囲の反応も、その声優自身の手応えも弱かった。
 また結果を出せなかったと落ち込んでいたそのとき、現場で小さな騒ぎがあった。
 ヒロイン役のオーディションを受ける予定の人気声優が何らかの理由でこられなくなったというのだ。
 ここまで聞いて、私はことの顛末てんまつを先読みできた。誰だってそうだろう。
 私にもヒロインのオーディションを受けさせてもらえませんか? 作品は何度も読んで、どの役もできるようにしています!
 こうして彼女はヒロインに抜擢され、人気声優への道を驀進ばくしんするのでありましたとさ。めでたし、めでたし。

「だから私もオーディションのときのもしもに備えて、全部のキャラを演じられるように準備してるんだよね」
 付箋だらけの原作本を見せつけながら、嬉しそうに語ってくる。
「それはあんたがその本、好きだからでしょ?」
「まあ、それもあるけど」

 現在。
 涙と鼻水にまみれた顔で、彼女は言う。
「さっきね、制作会社の人からメッセージをもらったの。演じてもらいたい役があるから、よかったら作品に参加しないか? って」鼻水をすする。「それに原作者の先生もSNSで私のこと応援してくれてて──」
 そこから先は、何を言っているのか聞き取れない。本人も何を言っているのか理解していない気がする。
 言葉になってない。言葉にならないのだろう。
「──いいのかな?」やっと聞き取れる声が出てきた。「こんなのっていいのかな? だって、嬉しいけど、だって、それって私がこうだからだよね?」
 自分の力ではどうにもできない脚を見つめている。
 そんなことないよ、とは思わない。
 ああ、その通りだ、とも思わない。
 彼女が注目を浴びる立場であるのは間違いないし、彼女が最終オーディションまで勝ち進む実力の持ち主であるのも事実だ。
 あとは単純に、困難の中にある人が、夢への一歩を踏み出す姿は、物語として美しいから。

 人は物語が好きだ。
 同じくらい、物語になぞらえるのも好きだ。
 隠していたものが明るみに出てしまった人を見つけては、まるで王様の耳はロバの耳だと言い、愚かな企業の社長は裸の王様であり、嘘を重ねて信用を失った有名人を見ては狼少年だと指をさす。
 人は悪を目にしたとき、そこに物語を結びつけたがる。
 そして大切な教訓を思い出す。
 しかし不思議なもので、誰かの非情な言動を見かけても、決してこう思うことはないのだ。
 これってもしかして、泣いた赤鬼なのでは? と。
 もちろん気づかれなくていい。
 気づかれたとしても一人でいいし、できれば泣いてほしくはなかった。 泣きじゃくる彼女の肩を抱いて、私は伝える。
「とりあえず、デビュー、おめでとう」

 彼女を家まで送って、帰路につく。
 彼女の親から、これからも娘をよろしくお願いと頭を下げられた。
 いえいえ、今の私があるのは娘さんのおかげですから、と言おうかどうか迷ったけれど、やめておいた。
 彼女の親をどう説得すればいいのか?
 それが今回の課題であり目的だった。
 彼女の夢を否定した、彼女の親を否定する気にはなれない。
 彼女の夢を否定したのは、間違いなく思いやりからだろう。
 それでも、彼女を応援する立場であってほしかった。
 だから私は力を使った。
 文字通りの力尽くで力技の暴力だ。
 上手くいく保証などどこにもなかったし、今この瞬間、あの映像の犯人が悪役令嬢さんではなく私だとバレてしまう可能性だってある。
 ただ、結果として、全て想像以上にうまくいってしまった。
 ただ、運が良かっただけ。
 それだけは肝に銘じなければならない。
 今後、例え何があっても、これを再現しようとしてはならない。
 今回はただ、運が良かっただけなのだから。
 人生は残酷だ、とまではいわない。
 だけど、どうしようもなく理不尽で不条理で、あまりにも運に左右されすぎている。
 だから、どうか彼女に、幸運を。
 そして十年後の彼女の存在が、かつて声優を目指した車椅子の少女がいたという無駄知識トリビアではなく、車椅子の声優がいる、という一般常識になっていますように。

 そこまで思って、はっとした。
 私自身はどうしたいのだろう?
 これから先、何になりたい?
 正直、将来のことを考えると暗い気持ちが押し寄せてくる。
 進学はしたくない。就職はもっとしたくない。
 ダメだ。頭の中で不安が膨れ上がってきた。
 とんでもないストレスだ。
 とりあえず、前方にいる太った小学生の持っているフランクフルトを奪ってかじりつく。
 お肉の弾力、肉汁、そこにケチャップとマスタードが絡んで、将来の不安が一時的に散っていく。
 おいしいなあと噛みしめていると、背後から肩を叩かれた。
 振り返ると、三十歳前後の女性が真剣なまなざしで私を見ている。
「あなたですか? いつも息子から食べ物をとってる女の子って」
 ひとまず私はフランクフルトを食べきって、それから唇のまわりについたケチャップを舌でなめてから「はい、そうですけど」と肯定する。
 少年の母親は、如何いかんともしがたいという表情をしばらく晒したあとで、くすっと相好そうごうを崩し「毎日、息子からおやつを盗んでくれてありがとう」と笑った。「あの子の肥満のことで困ってたんだけど、あなたのおかげで最近、少し痩せてきたの。これからもあの子の買い食いを見つけたら、優しくもらってあげてね」
「もちろんです。私も空腹が満たされて助かってます」
 そう答えて、二人で笑いあう。
 親からの許可をもらえたので、これからもどしどし奪っていこう。

「あの、ちょっといいですか?」
 古風な家の前で、四十代とおぼしき男性に呼びとめられた。
「はい、なんでしょう?」
「いつもうちのインターホンを鳴らしてる女子高生って、きみのことであってる?」
 男性からの問いに、理由のない間を作ってから、私はうなずいた。
 その反応を見て、男性はほっと胸をなでおろす。
「ありがとう。いつだったか母が倒れたとき、一緒に暮らそうっていったのに、ここを離れないって聞かなくて……だからきみがそれとなく母の安否を確認してくれて本当に助かってるんだ」
 男性は深くおじぎをした。
「いえいえ、趣味みたいなものですから」
「今日からうちの家族もここで暮らすけど、それでもときどきインターホンを鳴らしてもらってもいいかな? 口には出さないけど、母は毎日きみと会うのを楽しみにしてるみたいだから」
「わかりました。ときどきピンポンダッシュしますね」
 と言って、二人で笑いあった。

 自分でもよくわからないけど、どうにも私というやつは、誰かに小さなおせっかいをやくことに喜びを見出しているらしい。
 そういう仕事でもあればいいいのだけれど──そんなことを思いながら、いつものくせでスマホを開く。
 なんだかよくわからない求人広告がいくつか表示されている。
 こういうのは日ごろ見ているサイトを分析して、自分にぴったりのものを提案しているというのは本当だろうか。
「…………」
 どうせやりたいこともないし、試してみるのもいいかもしれない。
 私も彼女も十年後はどうなっているのか。
 未来のことすぎて、想像もできやしない。

 あっという間に十年後。

 朝。
 リビングにあるテレビをつけると、人気女優が介護の重要性とサポートを優しい声で呼びかけていた。
 それを偽善だのアピールだのと皮肉る人はもうどこにもいない。
 例え仮にそうであったとしても、十年も真摯につづけているのだ。それはもはや、ただの善意である。
 スマホの通知が鳴る。
 登録していた動画チャンネルに新作が投稿されたようだ。
 まだ時間に余裕があるのでのぞいてみることに。
『美女とお散歩』という登録者数70万人以上を誇るその人気チャンネルでは、口元から下しか映ってはいないものの、可憐で上品な雰囲気の女性が様々なロケーションを巡り歩き、ときどきこちらに手を振ったり笑顔を向けてくれたりするので、デートや友達になった気分を味わえると老若男女から高く支持されている。
 美女の正体は未だ謎だけど、きっとどこかの令嬢だと噂されている。それにかなり高額の撮影機材が使われていることだけは判明していた。
 そのとき、スマホに着信が入った。
 出るや否や、相手からの悲痛な叫び。
「すぐにいくから待ってて」と言って通話を終える。
 今日は余裕があるはずだったのに、そうはいかないらしい。
 仕事着に着替えて家を出る。少し歩いた先の契約駐車場にとめている福祉車両に乗ってエンジンキーを回した。
 法定速度を遵守して進むフロントガラスの先にはアスリートを目指す青年や、ついに建て替えが完了した家屋の姿などが通り過ぎていく。

 目的地に到着。
 車から出て、玄関の扉を開ける。
「おはようございます。品川ライフケアサポートです──」
「お願い! 助けて! 早く! 大変なの!」
 家の奥からの救援要請。
 やれやれ、一体何があったのやら。
「どうしたの?」
 部屋に入る。
 一応仕事中だけど、二人だけなので、言葉遣いは普段通りでいいだろう。
「どうしよう……」彼女はベッドの上に腰かけて、青ざめた表情でスマートフォンを握りしめている。「スマホを機種変して、いろいろさわってたら、何もしてないのにスケジュール帳が消えちゃった!」
 相手を包丁でめった刺しにしたら何もしてないのに倒れてしまった、くらいのおかしなことを仰っている。
「だから一人でやっちゃダメって言ったのに……」
「ごめんなさい……」
 本気で反省しているようなので、この話はここでおしまい。
 いつものことなので、ちょっとさわればすぐ直るだろう。
 それにスケジュールは私の頭の中に入ってる。
 彼女もそれがわかっているのだろう。
 車椅子に乗ると、それを前進させる私に振り向いて「今日の予定は?」と訊いてくる。
「このあと11時から17時まで収録が二本、そのあと来月の講演会の打ち合わせとラジオが一本」
 彼女はさらに問う。
「夜は?」
 答える。
「私とディナー」


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