どうぶつがいる。
意識を取り戻し、最初に瞳に飛び込んできたものへの素直な感想は、それだった。
めずらしい犬や馬や羊たちに囲まれているのだと思った。
少年は立ち上がって視界をはっきりさせると、そうではなかったと解る。
それらは木製の椅子であり、テーブルだった。
しかし、ただの椅子やテーブルでもなかった。
目を凝らしてみると、椅子は背板と肘掛けに、テーブルは脚と幕板に、何か物語のような彫刻が精密に施されていることに気づく。それでいて造りはとても頑丈で、きっと街のあらくれ者たちが乱暴に扱っても、びくともしないだろうと思った。
さまざまな大きさやかたちをした椅子やテーブルが無造作にいくつもある、まるで家具の牧場。
ぐるりと辺りを見わたすと、遠くに立派な壁や柱も見える。自分はどこかの宮殿にいるのかもしれない。
そのとき、とてもあまくて素敵な匂いが少年の鼻に流れ着く。
顔だけではなく、体ごと匂いのする方向に鋭く動く。
見ると、ひときわ大きなテーブルの上に、それはあった。
近づいて、美しい銀色の平皿に山積みされているそれを手にとってみる。
ほのかにあたたかく、少し力を入れただけで、指がそれに食い込んだ。ふんわりとしている。
何の危機感も抱くことなく、口に入れてみる。
おいしい!
そこから先はまさしく無我夢中で少年は次から次へとそれを口に押し込み、飲み込みつづけた。
よく噛まなかったせいで、のどに詰まって呼吸困難となり、むせる。
自分で自分をノックするみたいに、拳で胸を叩きつづけるものの、助かりそうにない。
ついさっき亡くなったばかりだというのに、再び死にかけている。
「ミルクをどうぞ」
差し出されたカップを受け取り一気に飲む。詰まっていたものを体内に流し込む。一命を取りとめる。
「……あ、ありがとうございます」
感謝を口にしながら思ったことが二つ。
もらったミルクがとても美味しかったこと。一体、自分はいま誰からミルクをもらったのだろうかということ。
相手を見た瞬間、のどに何も詰まっていないのに、また呼吸がとまる。
「はじめまして」
その、おそらく男は少年に紳士的な挨拶をした。
おそらく、なのは、顔を仮面で覆っていたため、声だけで判断したからである。
額から顎までを守る盾のような形状の仮面は黄金で拵えられており、そこに映っている貧相な自分の顔も何だか立派な人に見えてきて、少年は不思議な高揚を覚えた。
どこの国のものなのかわからない服とマントはどちらも夏の夜闇を編み込んだような漆黒で、黄金の仮面と同様にどれほどの価値があるのか見当もつかず、まちがいなくこの男性は高貴な身分の方なのだと震えた。
「ご、ごめんなさい!」
少年は床に伏せた。
「どうしてあやまるんだい?」
言うと同時に男の仮面に大きく『?』の記号が浮かぶが、少年にはその意味も仕組みもわからなかった。
「だってぼく、あなた様のお城に勝手に入って、勝手にごちそうを食べてしまって……」
それを聞いた男は愉快そうな声を上げて、気にしなくていいよと諭す。
仮面の記号が『?』から『笑』に変化したが、やはり少年にはその意味と仕組みがわからない。
「それはきみのために用意したものだから好きなだけ食べてもらってかまわないよ。それにごちそうだなんて大袈裟だね。ただのパンなのに」
「パン!?」
銃声のように驚く。少年にとってパンとは泥や草と比べたら食べるのに苦痛のない程度のものであり、味を楽しむものではなかったからだ。
「それにきみがここにきたんじゃなくて、私がここにきみを呼んだんだ」
「え?」
言われてみれば、ここがどこかのか、どうして自分はここにいるのかわからない。それ以上に──
「あの、あなたは一体……」
「私は、円居挽」
「マドイ、バン」
魔法のような響きだなと少年は思う。
「私はきみに贈りもの受けとってほしくて、ここにきてもらったんだ」
「贈りもの……ですか?」
なんだろう。だったらもっとパンがほしいと少年は心で願う。
「それは、希望と宝物だよ」
「……え?」
期待を抱かずにはいられない言葉だけど、具体的でもなかった。
「そのために、きみにミステリを書けるようになってほしい」
「……ミス、テリ?」
また魔法のような言葉を聞いた。
「ミステリを書くんだ、きみ」
男が顔につけている黄金の仮面に『!』という記号が浮かび上がる。相変わらずその意味はわからないけれど、なんだが圧を感じる。
「ま、待って下さい円居挽様! ぼくにはミステリとは何かわかりませんし、書き方だってわかりません」
「安心したまえ」
その言葉を予測していたかのように男の仮面の記号が『!』から『👍』に変化する。「きみが最高のミステリを書けるようになるために、私のともだちを紹介するよ」
「円居挽様のおともだち、ですか?」
「そう。みんな世界中から愛されているたくさんの物語を生み出した気高く高名な先生たちさ」
「ということは、円居挽様も先生なんですか?」
「そうだよ。さあ、善は急げだ。早速一人目の先生のところにいくといい」
円居挽先生はそう言うと、漆黒のマントを闘牛士のようにひらめかせた。
これはどういうことなのか。マントの中では星空のような空間がぐるぐると回っている。
驚きや考察をする間もなく、少年はその渦に飲み込まれていった。