人間関係・家族

前回記事であげつらった生活改善項目をエクセルで色分けし、どうすれば領域展開しやすいのか=幸せなのかを軽くメモってみた。

まずは表題の項目から。

両親から愛という名の支配ばかりで自由と自立を尊ぶ見守りの視線を投げかけられてこなかった毒親育ちの身としては、他者が、掛け値なしに「あなたに会えて(なんの得もないけど)ただただ嬉しい」という表情でこちらに駆け寄ってきてくれたとき、幸せを感じると思った。犬的なアレである。

こういうときに、セットで「親はそうではない」という事実が重く心にのしかかる=アダルトチルドレンよなあ、と思い、凹むことを繰り返してきたのだが、本日時点で尊びたいのは、犬的な人間関係が外部に多少なりと「ある」事実の方やろう。

自分がそういう風にしたいと思える相手と、自分にそのように接してくれる人をのみ、大切にすれば良い。

残念ながら家族はそうではないわけだが、もうこれ以上、精神的な繋がりを求めるのは無意識にであったとしても、本当にやめにした方がいい。いきなり関りをゼロにすることが難しい状況であっても、心の中で、可能な限り無風を望み、彼らの一挙手一側等に心揺さぶられないよう実践していくことが、私の家族(実家)セグメントにおいては最大限の最適解である。

問題は、仕事面で家族と若干の関りが存在し、経済的に依存、とまではいかないものの、完全なる独立、とまでもいっていない事情があることである。ここが見えない支配として機能している限り、自由で幸せとは言い難い。

この場合に私がとるべき思考・行動は、家族がおらんでもなんとかなるイメージを自分の中に持っておく、ということだろう。それは現状の仕事の中に見出し、現実面で担保できる面は担保しておくことも重要であるし、転職の可能性を頭の隅に置いておく必要もあるだろう。

「どっちでもいい」「どうにでもなる」
これらを、最強のお守りとして常に懐に忍ばせておきたいところだ。

心底そう思うためには、「健康」が第一、身体が資本である。
なんせ、「お前は体が弱いから何もできない」という呪いを浴び続け、実際には毒親育ちの生きづらさで何度も体を壊している身である。
「自分の健康」を信じることは実のところ、容易ではない。

次のテーマはそれかしらん。

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